大日本近世史料「幕府書物方日記」十五

本冊には、内閣文庫所蔵『書物方日記』十六(元文四年正月から六月まで)及び十七(同年七月から十二月まで)の二冊、一ケ年分を収めた。
書物奉行は前年と変らず、奈佐勝英・水原保氏・川口信友・桂山義樹・深見有隣である。同心には若干の異動がみられた。高橋幸左衛門が昨年暮に小普請入りを願出ていたが、改めて二月八日に願書を提出し、三月三十日に許された。また、小沢与四右衛門も四月から健康状態が悪化し、湯治願書を提出して療養していたが、八月一日に病死した。翌二日に病死届書等を若年寄に差出したが、その節、元禄年中抱入者跡式下命の例の有無を問われ、奉行衆合議の上、書物方には前例はないが、与四右衛門は数十年に亘る長期御奉公を理由に跡式願書を提出した。これは却下されたが、やがて御細工所における例を知り、八月二十四日に再度跡式願書を差出した。そして、九月二十五日に、これまでの欠員二名の補充として同心杉山平左衛門忰半次郎と同心和合甚左衛門忰佐太郎の両宅が抱入られ、同二十八日に、与四右衛門跡に小沢又四郎弟惣右衛門が補充された。その数日前に、浜野藤蔵が書役を命ぜられ、杉山平左衛門・杉村久左衛門・荻野清左衛門と共に四名となり、疋地次助・小沢清四郎両名は書役助を命じられた。また、御書物師出雲寺文次郎の養子文之丞が家業を相続することになり、所定の手続を経て七月二十六日に決定している。
 書籍の上呈では、歌合・歌書類がとくに頻繁で、歌枕名寄・歌仙家集・後鳥羽院御集・土御門院御集・草庵集・績草庵集・兼好家集・碧玉集・柏玉集・雪玉集・草根集・歌合部類等多くの歌書が出納された。新規御預りの書には「博学彙書」十二冊があり、また、加賀前田家献上の「法曹類林」の裏打を上申している。吉宗からの下問調査の類では、昨年来の新田義重壽算の件、宇治左大臣辞官の出典、嘉應以前の高倉院の記載のある記録の調査上呈、等がみられる。二条家の依頼による紅葉山文庫所蔵の二条家日次記の書写・校合は昨年から続行し、桂山義樹・深見有隣らの努力で終了し褒美金を拝領した。
 二月三日、右筆方より寺社御朱印写のため御朱印長持の差出しが通達されたが、既に文庫には「慶安二年大猷院様寺社領之分御朱印」はなく、寛文以後のみで、享保四年之分のみを右筆方に渡している。栗本瑞見調剤の兎脳催生丹下賜のことは著名であり、実紀では二月四日と同月十七日に下達されているが、目付から書物方に書付到来は二月二十日である。また、若年寄本多忠統(猗蘭臺集の著者)の文庫の書籍拝借は、例によって頻繁である、気が引けたのか、「拝借〓返納之御書物、御殿迄毎度御書物奉行呼出シ、取やり致シ候義、何とも太儀之程察入、迷惑ニ候間、何と成共何茂骨折不申様ニ仕方有之候ハゝ、其通ニ可被成候間、了簡申上侯様ニ」との旧例改善の提言を伝えたが、結局は、側衆への届出の必要があるので元の儘となった(十月一日条)。また、九月二十八日条の役所近辺の猫捕獲の通達は、泰平の江戸城内の珍妙な風景の一端である。
(例言一頁、目次二頁、本文二一六頁、人名一覧二八頁、書名一覧一四頁)
担当者 山本武夫・橋本政宣

『東京大学史料編纂所報』第16号 p.21*-22