大日本維新史料類纂之部「井伊家史料」十二

第十二巻は、(1)安政五年十月七目より同年十一月十日迄の長野主膳・宇津木六之丞往復書翰を軸とする朝幕交渉関係史料、(2)安政五年十月時の幕府徒目付等がおこなった京・大坂・水戸・江戸市中探索報告書、(3)同時期のその他幕政関係史料という三種類の史料群が収録されている。
 十月前半の朝幕交渉は、所司代酒井忠義のペースで進められる。彼の路線は、前内大臣三条実万を「御所の孔明」と位置づけ、三条を味方にし、且彼に入説させることによって、天皇及び近衛忠煕をはじめとする有力派公卿との合意をかちとることにあった(一二号)。忠義は十月二日、忠煕・実万と会談、六日には、家臣三浦吉信をして、老中間部詮勝に密かに情報を提供する長野主膳に、彼の行為は「政事の差支」と圧力をかけさせる(四号)。十日、幕府の第一の狙いであった将軍宣下旧例通りとの朝議が決定、詮勝は「実ニ此度之勤功、後々若狭守を御大賞被成下候様」と、忠義を賞賛した(八号)。忠義は翌十一日、忠煕・実万と再会談、鷹司輔煕退職・九条尚忠再出、皇女降嫁による公武合体等の案件を相談、大老に、「夷人雑居・兵庫湊両条」は幕府側が是非譲歩すべしと提案する(一二号)。
 だが、直弼の意を体した主膳は忠義の方針を軟弱だと非難、「近衛殿・三条殿、改心と申計ニテハとても関東之思召、主上貫通之場ニハ至申間敷」と主張(四号)、自分の再出後の事態不安定を恐れる尚忠も同様の意見であり、九条家家士島田左近は、十二日、「彼ノ悪徒之頭分、前非を悔る処でハなく、将軍宣下御内慮モ、我したり顔ニ被取計候始末ニさへ、御合点付不申哉」と忠義を罵倒する(一一号)。
 十四日、尚忠は、今後共忠義の路線が続くなら、関白に再出した際、一切責任をもてないと、強く再出辞退の意を表明、詮勝から、①鷹司父子は、所労引ではなく、幕府より処罰させる、②小林良典らは、吟味の埒が一向明かないので、江戸に差下しにするとの約束を引出す。強硬路線への転換の始りである(一八号)。詮勝の誓約を得た尚忠は、朝廷内の自らの位置を有利にすべく、十八日、①青蓮院宮処罰、②非役の諸卿国政に携ること禁止の二件について、主膳を介し、幕府に相談する(二七号)。これに対し幕府は、「矢張悪謀方を責付、主上御合点被爲遊候様之御都合ニ可相成哉と奉存候」と同意を表明した(五七号)。
 二四日の忠義の参内、仮条約調印報告に関し、幕府の立場を有利にするため、いかに尚忠・主膳・左近が裏で活動したかは、第四一・四三号文書が雄弁に語っている。当日忠義は同席させられず、大立腹であった。また、第四六号文書は、二七日参内した尚忠が、天皇に諫奏した内容を詳しく伝えている。
 二五日、尚忠は忠義に会見方を申入れ、忠義は、従来の忠煕・実万との関係を気兼して一旦ことわるが、左近は「若印、ニゲル様ノ人ナレハ、不面白、右様之意内ナレバ、兎角近・三条前・正三位の相手ニ宜存候」と述べた尚忠直書を吉信に見せ、忠義に心理的圧力をかけるのであった(四七号)。その結果、十一月二日、尚忠・忠義の会談となり、尚忠は忠義をして、これまでの親近衛・三条的態度及び条約問題での対朝廷宥和案を放棄させるのである(五八号)。
(目次一三頁、本文三一〇頁、図版一葉)
担当者 宮地正人・塚田孝

『東京大学史料編纂所報』第16号 p.22*