大日本史料第六編之三十八

本冊には、南朝長慶天皇の文中二年=北朝後円融天皇の応安六年(一三七三)七月から十二月までの史料を収める。
この間、八月十日に南朝の河内天野行宮が陥落して長慶天皇らが吉野へ退却した事件や、太閤二条良基の放氏にまで発展した興福寺衆徒の嗷訴(七月十五日・八月六日・十一月十三日・同二十一日条)をのぞいて、政治的にさほど大きな動きはない。八月二十五日に佐々木高氏(導誉)、十一月十六日に菊池武光と、南北双方の有力武将が死歿して、世代の替り目の様相を呈し、内乱も終末期を迎えつつある。
本冊に収めたおもな史料として、「学衆方評定引付」を中心とする東寺文書、来日中の明使と五山の禅僧とがやりとりした詩文を集めた「雲門一曲」、日記では近衛道嗣の「愚管記」・三条公忠の「後愚昧記」、などがあげられる。これらの史料について、いくつかことわっておくべき点があるので、本冊への註として以下に列挙しておく。
(一)十一月二十三日条に収めた「学衆方評定引付」の本文に、「本文書ノ正文、東寺百合文書ヌ函ニアリ」などの註記のみを付して、その文書自体を収載しなかったケースが五つある。これは『東寺百合文書目録』でその存在は知られるが、未公開のためくわしい内容が不明であった、いわゆる新発見の文書について、「引付」にその写か関連記事のみえる場合にかぎって採用した、過渡的かつ例外的な措置である。現在東寺百合文書は公開されており、次冊以降は新発見をふくめすべての文書の引載が可能となった。
(二)「雲門一曲」については、本所架蔵の謄写本(上村観光蔵本)を底本とし、一九四二年鹿王院文庫より刊行された活字本で校訂をくわえた。そのさい、両者に甲乙のつけがたい場合のみ「志」〔士イ〕のように表記し、異本のすぐれている場合はたんに「志」〔士〕とした。脱字を異本で補える場合は、その字を本文にくみこみ、右脇に(イ)を付した。
(三)尊経閣文庫所蔵の「実豊卿記」は、応安六年八月記の全部と九月二日条のみを存する残欠であるが、次にのべる三つの根拠によって、「後愚昧記」自筆本の一部と認められる。ゆえに書名を〔後愚昧記〕八月○尊経閣文庫所蔵実豊卿記のように標記した。
①本所所蔵の自筆本「後愚昧記」巻六冒頭の「大風例事」なる勘例は、「実豊卿記」九月二日条にみえる大風の記事と直接接続し、同日条の一部と考えられる(本冊一〇四〜九頁参照)。
②紙背文書のなかに、一通の文書の首部と尾部が「後愚昧記」、中間部が「実豊卿記」にわかれているものがある。
③筆蹟が両者酷似している。
(目次二〇頁、本文四二三頁、挿入図版三葉)
担当者 今枝愛真・安田寿子・村井章介

『東京大学史料編纂所報』第15号 p.56