大日本古記録「言経卿記」十一

本冊は、前冊のあとをうけ、慶長六年正月より同七年十二月までの二ヶ年分を収めた。史料編纂所所蔵の自筆原本では第二十三冊より第二十七冊に至る五冊である。このうち、慶長六年の二月・三月・十一月の日記には、それぞれ若干の脱簡が存する。記主山科言経の五十九歳と六十歳の日記である。
 慶長六年三月五日条は、写真版として巻頭に掲げたが、鳥養道〓より謡本三十番の刊本を後陽成天皇に献上したことに対して下された女房奉書と言経の副状とが挙げられている。この日の記事は森末義彰「鳥飼猿楽に関する一考察」(『歴史地理』六八ノ四)によって、はじめて学界に紹介されたものである。江島伊兵衛『車屋本之研究』(鴻山文庫、昭和十九年)に従えば、このとき献上された謡本が世に車屋本と俗称されているものであるという。車屋本は最古版の謡本であり、謡曲史上における価値はきわめて高い。なお、謡本の刊行については、すでに『言経卿記』慶長五年正月二十三日・同年三月二十日・同二十八日の条に、三輪・老松・蟻通・相生・浮舟・玉鬘・邯鄲・通小町・源氏供養・野宮・忠度の十一番が上梓されたことがみえており、その後に上梓された十九番を追加し、合計三十番として献上したものと推定される。
 この年五月、言経は長男言緒とともに徳川家康の参内の準備をした。同月十一日、家康は参内し、その奏請によって四辻季満・四條隆昌・水無瀬康胤等の勅免があった。家康はさらに御料および女院以下の知行を定め、言経・隆昌・冷泉為満はともに二百石、言緒は八十石の知行所を与えられた。九月には一乗寺三ヶ村の水帳を受取り、一乗寺の庄屋を呼び、公家諸家の知行所を分配した(橋本政宣「江戸時代の禁裏御領と公家領」『歴史と地理』二七九、参照)。
 慶長七年正月六日の叙位で、家康は従一位、豊臣秀頼は正二位にすすみ、言経も正二位に叙せられた。二月二十日、言経は後陽成天皇より家康を源氏長者に補任すべき内旨を受け、これを家康に伝えたが、家康は当年は慎であるとて固辞した。十二月四日には、東山方広寺大仏殿が焼亡し、照高院も類焼した記事を掲げている。
 ほかに七種御遊、殿上渕酔の再興、各種の和歌会等、朝廷の儀式や行事に関する記事をはじめ、学芸・医薬・音楽・囲碁・将棋等各種の遊芸におよぶ記事が豊富なことは既刊の諸冊と同様である。
(例言一頁、目次一頁、本文三六四頁、挿入図版一葉、岩波書店発行)
担当者 田中健夫

『東京大学史料編纂所報』第15号 p.58*