大日本近世史料「細川家史料」七

本冊には、前冊にひきつづき、寛永十六年正月六日から同十八年三月十四日に至る間の忠利宛忠興(三斎)書状一三〇通、ならびに補遺として同書状一二五通を収めた。永青文庫の所蔵にかかる忠利宛三斎書状は、本冊までにすべて収録されたことになる。
寛永十六年三斎七十七才、十八年には七十九才の高齢である。そしてその年三月十七日忠利は熊本で病歿した。年五十六才であった。父子の間の書状の往復は病歿の直前まで続けられ、忠利書状にたいする三斎の最後の返書は三月十四日付である、寛永十六年には中務大輔立孝の将軍家光への目見の事もあり、三斎は江戸に出府した。しかし老人の事でもあり、前夜から引続いて病気も多かったようである。書状にもその病状を報ずるものが多く、医師・薬・忠利や光尚からの見舞などの記事が多い。書状に花押はほとんどみられなくなり、ローマ字印が多く、また署名のみで印判も捺さないなど簡略な形式のものが少なくない。しかし、政治情勢にたいする関心は、相変らず旺盛であり、応待も行届いている。すでに隠居の身として公辺への処置には忠利を立てねばならない。このような立場に立つ身から生じてくる積極的な関心と遠慮とのせめぎあいの感情のよう次ものが、文面の端々に感じられるものもある。
記事は、家光の柳生邸御成、日光社参、千代姫の祝言と病気、江戸城の火災と江戸大火、諸大名の転封や改易、蝦夷地内浦嶽の噴火等多岐にわたる。十六年十一月、帰国にあたり、家光みずから俊成・定家両筆の幅を与えられたことは余程嬉しかったらしい。また十七年から始まる幕府船手頭の四国・九州浦々巡見は同地域への幕府権力の浸透を示すものであろうし、同年に井上政重と長崎奉行柘植正時が平戸オランダ商館倉庫を打毀した事件は、鎖国途上の出来事として著名である。また隣国相良家の家中騒動の記事は、三斎が八代に帰国中に多くの事が運んだこともあって、生々しい動きを伝えている。諸大名の取立が、信長・秀吉以来氏系図などに一切かかわりなく人物の器量を見立てて登用したという指摘も面白い。忠利発病の事は十八年二月六日の書状から現われ、治療について三斎は種々書き送ったが病状は急速に悪化したようである。
補遺に収載したものは、当然既刊の部分の内容と重なり、内容も興味あるものが多い。それらの一々については触れないが、ここではとくに寛永九年の肥後転封に関する書状が重要である。既刊部分では寛永九年十一月・十二月の移転実行段階での書状が僅かしか収められなかったが、この補遺で三十八通を補うことができた。国替にともなう隣国の情勢探索・領国引渡に必要な郷帳・物成帳・国絵図等の書類整理、細川家に従って移住を希望する町人の取扱い、上使衆にたいする細心の心遣いなどが注目される。またこの過程で肥後領に属する鶴崎茶屋の建物を、三斎の家臣が領国引渡しの完了以前に修理するという事件がおきたが、この件に関して示した三斎の家臣にたいする激怒と、上使衆の心証についての危倶焦燥は、慕権確立期における幕府対大名関係の一事例として興味がもたれよう。
(例言一頁、目次二〇頁、本文三一九頁、人名一覧四四頁)
担当者 村井益男・荒野泰典

『東京大学史料編纂所報』第15号 p.58**-59