日本関係海外史料「イギリス商館長日記」訳文編之下

本冊は『日本関係海外史科』第二の収載史料であるイギリス商館長日記訳文編四分冊の内本文二分冊の第二冊で、訳文編之下(自元和三年六月−至元和八年二月)として、大英図書館所蔵の商館長リチャード・コックス在職期間中の公務日記(Diary of Richard Cocks, 1615-1622)の原本二冊の内、第二冊(AM第三一三〇一号)の全文、すなわち、原文編之中の後半、旧暦(ジュリアン暦)一六一七年七月六日(元和三年六月十四日)より一六一九年一月十四日(元和四年十二月九日)までの一年半、及び原文編之下所収の一六二〇年十二月五目(元和六年十二月二十二日)より一六二二年三月二十四日(元和八年二月二十三日)までの一年半の、中間二年弱を闕いた記事の翻訳を収める。但し、上巻例言に記したように、原文の欄外註は重要なものを割注に引用する以外総べて省略し、かつ原本の体裁の如何に拘らず暦年の変り目では頁を改め、月の変り目では行間を空けた。
 前半の部分は、上巻に見える幕府の貿易地平戸長崎限定策のあおりを受け、かつしだいに烈しくなるオランダの海上活動のもとにあって、平戸イギリス商館が、しだいに「屈辱」状態にさらされて行く期間に当る。一六一七年七月、平戸港には、南海でスペイン・ポルトガル船隊と戦った司会官ラムの乗ってきたアウデ・ゾンネ号以下数隻のオランダ船がひしめいていた。コックスは、先年薩摩に戻った亡き魏官のジャンク船の積荷の蘇木の帰属をめぐって知工ミゲル数之介と松浦氏の法廷で係争中で、八月末まで審理が続くが最終判決についての記事は闕けている。高砂遠征に失敗して長崎に戻った村山秋安が、一六一七年三月平戸を出たギフト・オヴ・ゴッド号の三浦按針の消息を齎して間もなく、同号は五島経由で無事平戸に帰航したが、これと相前後して入港したイギリス船アドヴァイス号は英国王ジェイムズ一世の家康宛ての親書を齎したため、コックスは八月二十六日から十一月十七日にかけて京都への旅に出て、九月十三日国王書翰を伏見で秀忠に献上、返翰は得られなかったが、東京向けの朱印状の更新を得た。この旅行中に、かねて一六一六年十二月シャムに向かったスィー・アドヴェンチュア号のイートン一行が平戸に帰り、なお平戸オランダ商館は平静を保ち、さらに、一六一八年一月二日にはイートン一行がスィー・アドヴェンチュア号で第四回航海に出発し、三月六日には明国皇帝あての英国王書翰を訳述浄書して甲必丹華宇に托し、さらに三月十七日には三浦按針・セイヤー一行を長崎から肥後四官船で交趾に送り出した。もっとも、華宇の船は難破したと伝えられ、セイヤー一行の船も一度は薩摩に避泊し、琉球で越冬してのちコックスの再三の帰航勧誘にも拘らずシャムに赴いた。「屈辱」が始まったのは、マティアス・テン・ブルッケらオランダ人一行が参府の旅に出発して間もない一六一八年八月八日、蘭船ローデ・レーウ号が英船アテンダンス号を捕獲して入港したときである。前年九月以来在国し、四月再び参覲した松浦隆信を頼ってコックスとニールソンは、八月二十三日平戸を出発して江戸に参府し、秀忠・家光に贈物を献上し、蘭人の非法を訴え、かつ朱印状の更新を求め、朱印状の事は茶屋四郎次郎清次の尽力に委ねて一六一九年一月八日平戸に帰着した。この間の出来事として、朝鮮信使の来聘、後陽成院の葬儀、耶揚子の派船、村山等安と末次平蔵との確執、李旦の女児の誕生祝、大坂遊女多賀野との交際、長崎銀座役人による銀の吹替え、火起請による盗人の立証、端午の節句、握浮那の父の動静、江戸城内東照宮・弓矢八幡例祭の見物、彗星の出現、等々が注意をひく。
 「屈辱」の激化と防衛同盟によるその沈静という転期を示す時期については、「附録」に譲る。後半の部分は、同盟によって派遣された防衛船隊が、平戸を基地として第一回マニラ遠征の途に就こうという一六二〇年十二月に始まる。一六二一年一月三日(元和六年師走二十一日)船隊が出帆すると、コックスにとっては三つの大きな仕事が残る。その第一は、英蘭両商館が協調して御用鉛を幕府に調達する事務と、前年末の平山常陳の船の積荷の帰属と便乗宣教師の処遇をめぐる事務であり、その第二は、コックスの得た朱印状を伊丹屋ミゲル治右衛門に与えて東京へジャンク船を派遣し、併せて亡き三浦按針の得た朱印状の使途につき按針一類と折衝を重ねることであり、そして第三は、二月下旬から六月中旬まで続いた商館倉庫、埋葬地、及び河内浦埠頭の増築工事の立案、契約、監督の仕事であった。伊丹屋の船は、三月末か四月始めに長崎を出帆したが、しかし六月には目的を果さず長崎に戻った。鉛の値段のことと平山船一件では、コックスとスペックスは三月と五月に江戸に急使を立て、長崎奉行長谷川藤正は二月から八月、八月から十一月、十一月以後と、三度も江戸に出張し、牧野氏女と結婚した松浦隆信も八月二十八日には下国して、幕閣の武器人員禁輸令を伝達し、かつ前記の問題の処理に当る。その間一六二一年六月末から七月にかけて防衛船隊が帰着して、荷卸しや修理・艤装の仕事が続き、年初以来オランダ商館でのスペックスからカムプスヘの商館長事務引継がある。隆信のスペックス留任の希望も空しく船隊は彼を伴なって十一月二十二日に第二回マニラ遠征に出発するが、そのあと十一月三十日には、コックスとカムプスがそれぞれ江戸参府の旅に出る。贈物の献上、朱印状の更新、平山船一件の処理、平戸における日本人による虐待の解消などが目的であるが、日記はコックス一行の帰途吉田到着の一六二二年三月二十四日で切れている。日記中にはなお、松浦氏による河内浦の町立て、松浦信実の死去と葬儀、暹羅使節の来日、愛宕・浅草の見物、耶揚子の養子や三浦按針死後の家族の動静、浜名湖畔の馬丁の争い、上巳や矢鏑馬の行事、各地の火災や地震のことなど、当代の史実を知る記事が多い。
 本冊を以て現存するコックスの日記全文の訳述を終え、それがトムソン版に依拠していた従来の研究に多くを補充するものであることは言うまでもないが、なお原文編之下に載せた附録の訳文と、訳文編之上・下・附録についての索引はそれぞれ別冊として刊行の予定である。
 本冊の翻訳は金井が行い、村上直次郎編、トムソン原編のコックス日記複刻本と、それに依拠した『大日本史料』第十二編之二十七〜四十四(大正十五〜昭和四十二年刊)を参照した。校正は非常勤職員武中明子も分担した。
(例言二頁、目次三頁、本文九七二頁、上巻正誤表一〇頁、他に下巻正誤表投込四頁)
担当者 金井圓・五野井�史

『東京大学史料編纂所報』第15号 p.62*-64