大日本史料第十編之十六

本冊には、正親町天皇天正元年四月十四日の条から、同年七月是月条までの史料を収めている。
 まず、この期間の中央の政治情勢としては、前年以来、特に対立をみせてきた将軍足利義昭と織田信長の関係が、本年二月、義昭が信長打倒の軍事行動を起こしたことによって、最悪の状態となった。同年四月、両名は勅を奉じて和睦したが(以上前冊収録)、同年七月、義昭は山城槇嶋城に拠り、再び挙兵した(七月三日条)。義昭は、直ちに上洛した信長に同城を攻められ、同国枇杷荘に逃れ、更に河内若江に徙らざるをえなかった(七月十八日条)。将軍が京都から退去したことにより、室町幕府はここに滅亡した。京都を掌握した信長は(七月二十一日条)、改元を奏し、年号は元亀から天正へと変った(七月二十八日条)。織田政権の新しい出発が実現した重要な時期に当っている。
 また、地方の政治情勢では、武田信玄歿後の武田勝頼(四月二十三日・六月二十七日条)、上杉謙信(四月二十一日・六月二十六日条)、徳川家康(五月是月条)らの動静に注意してみるべきものがあり、九州では、島津氏の動きが活発である(五月二十四日・七月二十五日条)。特に、米良重直らが伊東義祐に背き、島津忠平に帰属した判断は、注目されよう(四月二十六日条)。
 次に、本冊には、死歿・伝記史料として、対馬の宗将盛(四月二十二日条)、三好長治の臣篠原長房・長重父子(五月十三日条)、権大納言正二位万里小路惟房(六月九日条)、前等持寺住持継之景俊(六月十八日条)、河内高屋城主畠山昭高(六月二十五日条)、イエズス会巡察師ゴンサー口・アルヴァレス(六月二十八日条)、興福寺別当僧正光明院実暁(六月二十九日条)、醍醐寺行樹院権僧正深応(七月四日条)を収めている。
 中でも「洲河家文書」を中心とした宗将盛の関係資料は、対馬出張による史料採訪の成果を活用し、また、畠山昭高の歿日は、「観心寺文書」などにより、新たに史実を決定したものである。
担当者 菊地勇次郎・染谷光広
欧文担当者 金井円・加藤栄一・五野井隆史
(目次一二頁、本文三八三頁、欧文目次一頁、欧文本文七頁、挿入図版二葉)

『東京大学史料編纂所報』第14号 p.35