大日本史料第八編之三十一

本冊には、後土御門天皇延徳元年年末雑載(仏寺〔承前〕、禁中、幕府)の史料を収める。
仏寺には、第八編之三十を承け、諸寺の規式、月忌・年忌の法要、社寺参詣、往来、贈答、建立・修理、紛争等の記事を収めているが、相国寺蔭凉軒・北野宮寺松梅院・興福寺大乗院関係の史料が大部分を占める。往来・贈答では、蔭凉軒主集証と松梅院禅予の交際範囲の広さが示されるが、集証の場合、幕府要人との交際が頻繁にみられるのは当然のことであるが、ほかに飛鳥井雅親・同雅康等公家文人との学芸上の交流の記事が注目される。また禅予が、宮寺領庄園維持のため、わざわざ能登まで使者を派し、守護畠山義統に太刀以下を贈り、その意を迎えんとしたところ、義統はこれを受け取らず返却している記事は、守護による庄園侵略の一端を物語るものである。この年興福寺禅定院内に、北中島亭と石築地を建設しているが、「北中島亭作事諸下行」と「石築地方引付」により、その作事の状況、用材・費用等が詳細に知られ、また楊本庄以下六十四ヶ庄に百廿七貫の要脚を課している記事もあり、衰えたりと雖興福寺の勢威の残映を示している。当時の世相を反映して、寺院内部・寺院間・対世俗の各種の紛争が起っているが、このうち建仁寺勝鬘院生妙永の訴訟に対して、集証が「東相公(足利義政)諸事不被拘世務、況近日愁卓(三月二十六日義煕薨ず)被閣諸篇、以故白次一向不被白諸事、今所訴之一件雖披露申、不可有白次人、」と述べているのは、当時の幕政を示す興味ある記述である。ちなみに、義政は明年正月七日薨ずる。
禁中には、禁裏小番、梳髪、宮女の行動等、幕府には、義政身辺の雑事、東山第の造作・造園等の記事を収めているが、天皇・将軍の行動に関する史料の多くは、既に綱文を立て収載しているため、これに関する雑載の分量は極めて少ない。
(目次一頁、本文三九九頁)
担当者 小泉宜右・今泉淑夫

『東京大学史料編纂所報』第14号 p.34*