大日本史料第二編之二十

本冊には後一条天皇治安三年十二月から、万寿元年十一月までの史料が収めてある。
 この間に於ける公事の主なものとしては、改元がある。これに就いては、まず治安三年十二月十九日(二二頁以下)、宣旨を紀伝・明経・暦道等に下して、明年甲子歳が革令に当るや否やを勘申せしめ、ついで翌年四月二十六日(第二条、二二二頁以下)、陣定を行なって革令のことを定め、参議藤原広業等をして、年号を撰進させている。諸道の勘申では、革令の当否は不明であったが、結局、甲子歳は慎むべしとて、七月十三日(二五〇頁以下)、万寿と改元し、常赦を行なった。
 次に、入道前太政大臣藤原道長の主な行動に就いてみると、治安三年十二月二十三日(第二条、三五頁以下)、彼は新造の法成寺薬師堂に仏像を安置し、翌万寿元年正月八日(第二条、一三三頁以下)、同寺に於いて修正を行ない、四月七日(第二条、二〇三頁以下)には、同寺内に塔・六丈堂・十斎堂造立のため立柱し、関白左大臣藤原頼通以下に、その柱石を曳かせている。ついで六月二十六日(第一条、二三五頁以下)、同寺薬師堂を供養し、太皇太后(藤原彰子)もこれに臨席した。この堂供養は、御斎会の儀に准じたものである。
 次に、頼通については、万寿元年九月十九日(二七五頁以下)、高陽院で行なった競馬が著名である。これより先、同月十四日(二七一頁以下)、太皇太后は競馬御覧のため、同院に遷られ、当日、後一条天皇の行幸、東宮(敦良親王)行啓のもとに行なわれた。同院での競馬の模様や後宴に就いては、『小右記』『高陽院行幸和歌』『栄花物語』などによって、詳しく知ることができる。また、重要文化財指定の久保家本「駒競行幸絵巻」(東宮の高陽院到着場面)を、原色図版として挿入してある。
 本冊に於いて、その事蹟を集録した者は、侍医和気相法(治安三年々末雑載、社会の条、七五頁以下)・検非違使紀貞光(同上、七八頁以下)・内大臣藤原教通室(権大納言藤原公任女、万寿元年正月六日の条、一一四頁以下)・大原入道寂源(源時叙、三月二日の条、一六九頁以下)などである。
(目次一九頁、本文三七三頁、原色挿入図版一葉)
担当者 土田直鎮・渡辺直彦・河内祥輔・加藤友康

『東京大学史料編纂所報』第14号 p.34