「保古飛呂比」佐佐木高行日記十一・十二

本書十一には、巻五十五から巻五十九まで、すなわち明治十五年高行五十三歳の、同十二には、巻六十から巻六十三まで、すなわち明治十六年高行五十四歳の、それぞれ一年間の記事を収めた。また十二には、高行の略歴および本書全十二冊の人名索引を附した。
明治十四年政変に続く両年、政府は、民権運動の高揚に対抗して、天皇主権と立憲制とを結合した政体を構想し、諸施策を講じていった。軍事面では、軍人勅諭(十五年一月)を発して天皇の統帥権を固め、軍を政争の外に置いた。また壬午事変(七月)を機に、岩倉・山県の軍備拡張論が閣議を制し、地方長官への勅語(十一月)をへて、軍事費増額が陸海軍両省に内達された(十二月)。経済面では、官有林野の皇室料地編入が進められ、また、日本銀行設立(六月条例、十月開業)、国立銀行条例改正(十六年五月)、金札引換公債条例(十二月)によって、兌換紙幣を発行し不換銀行券・政府発行紙幣を消却する、いわゆる松方財政が展開された。政治面では、前年の自由党に続いて立憲政党・立憲改進党・九州改進党等が結成され(十五年一月〜三月)、運動が活発化したのに対して、政府は一方で、伊藤博文等を憲法調査のため欧州に派遣し(四月出発、十六年八月帰国)、他方で、板垣の遭難(十五年四月)で刺激された運動の沈静を計って板垣・後藤を外遊させ(十一月)、また集会条例・新聞紙条例・出版条例を改正して(十五年六月、十六年四月、六月)結社・集会・言論の自由を奪った。酒屋会議は禁止をくぐって開かれ(十五年五月)たが、運動は福島事件(十一月)、高田事件(十六年三月)とあいついで弾圧された。外交面では、条約改正各国予議会が開かれた(十五年一月〜七月)ものゝ、治外法権の壁は堅く、また壬午事変後の処理においても、朝鮮の謝罪・兇徒処分・賠償等は獲得したが、清の朝鮮に対する宗主権を揺がすことはできなかった。
高行は、この両年引続き工部卿兼参議として閣議に列した。この間、北海道・奥羽諸鉱山巡回(十五年五月〜七月)、工部省関西諸分局及び官私有鉱山巡視(十六年四月〜七月)に赴き、また条約改正意見書(十五年五月)、皇室料地についての建議(九月、十月)、北海道官営工場処分意見書(十二月)、位階制拡充の建議(十六年)、工部省改革案(十六年)、長崎造船局貸渡意見書(十六年)等を提出している。
両冊には、これらの建議・意見書のほか、三大臣、閣僚、諸官僚の書翰や内話が多く記され、政局の機微を物語っている。また両度の巡回でその数を増した地方官民面識者からの来翰や陳情書は、地方における民権運動をめぐる動向、殖産興業や士族授産についての興味ある資料を提供してくれる。
附録の佐佐木高行略歴は、天保元年より明治十六年までは主として本書に拠り、十七年から歿年の四十三年までは津田茂麿薯『明治聖上と臣高行』に拠った。人名索引は外国人を含めて五十音順に、概ね電話帳方式に排列した。略歴ならびに索引の作成には、勝田政治・塚田孝・岡本充弘三氏の協力を得た。
(十一 例言・目次各一頁、本文四二八頁)
(十二 例言・目次各一頁、本文二六一頁、附録二一四頁)
担当者 山口啓二 多田實

『東京大学史料編纂所報』第14号 p.39*