大日本古記録「小右記九」

この冊には小右記本記の最後の部分と小記目録の前半とを収めた。
 本記として収めたのは長元四年七月から同五年十二月までの一年六箇月間の記であって、この間長元四年十月−十二月の記を欠き、長元五年正月−十月の記及び同十一月二日条は略本である。先行の刊本である史料大成版に対しては、長元五年十一月七日以降の記の底本を略本から広本に改めている。記主藤原実資七十五−六歳のときの日記であって、このとき実資は前冊の時期同様、正二位、右大臣、右近衛大将、皇太弟傅の地位にあった。
 この後の時期については、実資の日記のまとまって伝わるものは現在のところ知られていないが、原日記がここで擱筆されたのでないことは、なお長暦四年に至るまで(木本好信「『小右記』の最下限逸文について」『古代文化』三一−一〇、昭和五十四年十月)の時期の記の逸文が諸書に散見することによって確かめられる。にもかかわらずここまで比較的連続して残された日記が、長元六年以後の部分を散逸させてしまっている理由については、本報第五号(昭和四十六年)に桃裕行氏の考察があり、そこではこの伝存状態のちがいを生んだものとして小記目録の作成をめぐる一連の動きが想定されている。
 この冊の後半にはその小記目録の第一巻から第十巻までを、小記目録上と名づけて収めた。小記目録は、さきの桃氏の考察が明らかにしている通り、長元六年以後あまり降らない時期に、小右記のほぼ完全な本を底本として全二十巻に編成されたと考えられる、詳細で大部な分類目録である。伝存状況は本記に比べて著しく良く、全体の九割に当る十八巻が破損欠脱の少い状態で現存している。その史料価値には、これもさきの考察で桃氏がすでに述べているように、さまざまなものが考えられるが、ここで一、二蛇足を加えるなら、その一つは、本記の文字の復原のための資料としての価値である。この目録の拠った本記の本文が原本またはその直接の写本であると考えられるところから、そこにあらわれる字句によって、本記の現存写本の字句の誤りを正すことができるのである。たとえば、前冊に収めた長元三年九月二十五日条で「知章一家天狗」の「狗」が底本では傍書して「狐」と改められているのを、校訂にあたってむしろ傍書が誤っているのではないかと注したが、この目録の第3798項に「長元三年九月廿五日、天狐託人言語事、」とあるのによれば、目録の依拠した本文にも「狐」とあったと判断するほかなく、さきの底本の傍書はきわめて有力な傍証を得るのである。さきの校訂者注記は誤りとして削除する。そればかりか、この一事によって、すくなくともこの条を含む底本については、傍書による訂正が、本文上に客観的な根拠を持つ場合のあることが確証されているものとして、一般の場合以上に重視されなければならないことが示されたことにもなるのである。また、この目録の記載が断簡・逸文等の年次推定の重要資料となることは桃氏の指摘するところであるが、それとともに、逸文の、あるいは破損や脱落省略のある本文の、読解にあたって、その章句の属していた記述全体の主題がこの目録によって示されることに伴って、当の章句から読みとれる内容が大きく増加するということもまた期待されてよいであろう。更に、こうした、本記を補足しあるいはその読解を補助するという効用のほかに、本記からはなれた独自の史料価値もまた認められなければならないと思われる。たとえば、その分類項目が、日記の記載事項を捉える同時代の貴族のさまざまな観点と、その観点相互が全体としてかたちづくる認識の体系とを示していることなどは、特に注目されてよい点であろう。なお、ここに収めた十巻は、目録の原形を伝える形では、史料大成版に収められた第四巻を除いて、はじめて翻刻されたものである。
(例言二頁、本文二七四頁、図版二葉、岩波書店発行)
担当者 龍福義友

『東京大学史料編纂所報』第14号 p.37*-38