大日本古記録「民經記二」

本冊には、安貞二年十月、寛喜元年正・三・五・六月、同二年正月、同三年正−三月の、本記および紙背文書を収めた。
 編纂に用いた諸本のうち、次の点につき特記しておく。
 先年の「民経記」一の編纂に当り、東洋文庫所蔵自筆本の欠脱を、国立公文書館内閣文庫所蔵の写本「民経御記」(20冊本)を以て補った部分があった。その後新たに発見した写本「民経御記」(20冊本、広橋真光氏所蔵)を調査した処、これが前記内閣本の親本である、と推定し得たので、今回は内閣本を使用せず、右の広橋氏所蔵本を用いた。
 なお、東洋文庫の蔵書中に「寛喜元年九月自十一日至十四日」の日記があり、従来「経光卿記」とされていたが、内容を検討すると経光の日記ではあり得ない(経光の父頼資の日記を経光が書写したものであろう)ので、採用しなかった。
 本冊は、記主経光が十七歳から二十歳に至る時に当る。当時、経光は治部権少輔、蔵人の職に在り、従五位上から正五位下に昇った(寛喜元年十月)。父頼資は権中納言に在職している。
 この間、関白が近衛家実から九条道家に交替(安貞二年十二月)し、道家の女〓子が後堀河天皇の中宮となり(寛喜二年二月)、同三年二月に皇子(秀仁)を生した(後の四条天皇)。九条家にとって事態が順調に動いて行き、頼資・経光父子が属する近衛家側には不本意な時期となる。経光は、蔵人の職務のため、内裏および関白亭に毎日の様に参候して数々の案件を申し出、仰せを受け、伝達している。それに加えて、御方違行幸・一代一度仏舎利奉献・鷹司院殿上始・住吉社遷宮・白馬節会・射礼・釈奠・北白河院中宮御幸・長講堂御八講・免者や、その他多数の行事を奉行して多忙の日を過し、その経過を日記に記している。この他、中宮〓子の出産に関連する記事も多く、御産定から出産当日・御湯殿始・読書鳴弦を経て皇子御五十日定に至る詳しい記事がある。
(例言二頁、目次一頁、本文三一三頁、挿入図版一葉、岩波書店発行)
担当者 石田祐一

『東京大学史料編纂所報』第14号 p.36**-37