大日本維新史料類纂之部「井伊家史料十一」

本冊には、安政五(一八五八)年九月二十六日から十月六日までの記事を収めた。梅田雲浜、小林良典らを逮捕し、反幕府の立場にある公卿を威嚇しながら、幕府が、九条尚忠を内覧に復職させるために、もろもろの画策をおこなったのが、この時期であった。尚忠の復職こそが、条約勅許と家茂への将軍宣下とを、朝廷から得る方途であるという考えが、井伊直弼や長野主膳にあったからである。
 京都所司代酒井忠義は、これまでの弾圧によって、悪謀方の巨頭である三条実万に改心の姿が見えるから、今後は強硬な手段をとらなくても、事態は幕府の意図する通り進行するだろう、という見通しを直弼に報告している(五八号)。これに対し、在京の長野主膳は、忠義は臆病で悪謀方の取締りが軟弱であり、尚忠復職の努力を怠っているので、自分としては忠義に献言する積りはない、という意味の書状を、再三にわたって直弼と宇津木六之丞とに送った。直弼は主膳の意見を容れて、在京の老中間部詮勝に、忠義は実万と懇意だから油断しないように、実万の改心は期待できないから厳罰に処するように、と書き送っている(一六号)。
 詮勝が江戸の同役に宛てた書状の江戸藩邸での写を、本冊は多く収録している。いずれも京都の情勢を報じ、どう対処すべきかについて自己の見解を述べたものである。このうち、兵庫開港差止めを上奏すれば朝廷の態度は軟化すると思うから、米国にその点を懸合ってはどうか、という意味を記した九月晦日付の書状(二〇号)に、直弼が不快の念をもった。直弼は直ちに詮勝に書状を送り、怖気づかないで条約通り兵庫は開港すると朝廷に伝えよ、と述べている(五三号)。また、六之丞も主膳宛書状の中で、詮勝の鋭気がくじけたように見えるから激励せよ、と記している(六三号)。直弼と詮勝とは、のちに不和となるが、これは、その最初のあらわれであった。
 京都町奉行与力渡辺金三郎は、自分の探索の結果を、しばしば主膳に内報している。しかし、これは正規のルートではないので、詮勝には知らせないようにしてほしい、とその都度記していることに注目しておこう(三〇号・四五号)。
 以上のほか、本冊には、九月から十月にかけての、石崎八郎・佐竹七之助による京都築地内の風聞探索書、隠密廻や関東取締出役による水戸徳川家の動向の探索書、大目付や各奉行の評議書などを収録している。
(目次一三頁、本文三三〇頁)
担当者 小野正雄・宮地正人

『東京大学史料編纂所報』第14号 p.38**-39