大日本史料第十一編之十六

本冊は天正十三年五月十五日から七月四日までの史料を収めている。
 本冊の段階で羽柴秀吉は四国の長宗我部征伐に着手し、北国の佐々征伐への準備を行っている。四国征伐の動きとしては、まず出馬の期日を六月三日から同十六日に延期し(五月二十日条)、その十六日羽柴秀長・同秀次が渡海、秀吉自身は七月三日出馬の予定であった(六月十六日条)。秀長・秀次両人は阿波の諸所に禁制を下し軍を進めていった(七月二日条)。秀吉に協力した毛利軍の動きを見ると、輝元が麾下の士に対し六月十六日を期して出陣することを命じ(六月八日条)、小早川隆景・吉川元長・宍戸元孝等は六月二十七日伊予に渡海した(同日条)。なお秀吉は六月十八日の時点で隆景に伊予を与えることを約している。(同日条)。
 秀吉の北国征伐への準備行動としては、前田利家を上洛させて打ち合せを行ない(五月十八日条・六月六日条)、進路にあたる蜂屋頼隆・堀秀政に領国内の道路・橋梁の整備を命じ(五月二十八日条・六月二十九日条)、関東の佐竹・宇都宮・結城氏、越後の上杉氏に対し近く佐々征伐を行う旨を通告した(六月十五日条・同二十五日条)。この間も北国では前田勢と佐々勢との間に戦闘がくり返されていた(五月是月条・六月二十七日条)。
 支配領域内に於ける秀吉の施策としては、高野山に対し綸旨にもとづいて所領の安堵を行うと共に僧徒の兵具を帯することを禁じ、旧勢力を圧伏して一山の支配を木食応其に任せた(六月十一日条)。又、脇坂安治・山内一豊・生駒近規に摂津・若狭・近江に於いて地を給し(五月是月条・六月二日条)、観音寺賢珍に金子請取状を与えている(七月一日条)。
 徳川家康の動向を見ると、家康は秀吉に降って上洛した織田信雄に対して下向を促したが(六月十日条)、信雄からは反対に、秀吉に従い質を尾張清須に出すべきこと、北国征伐により佐々成政が家康領国中へ逃入った場合は差出すべきことを報じて来た(六月十一日条)。
 中央の公家関係の事項では、山科言経・冷泉為満・四条隆昌の三名が勅勘を蒙り堺に出奔した事件がある(六月十九日条)。
 各地に於ける主なる動向を列挙すると、まず東北・関東では伊達氏が上杉氏・北条氏と音信を交し(六月五日条・同十一日条)、最上氏は岩城氏に充てて大宝寺氏に戦勝したことを報じている(六月十四日条)。北陸では、上杉景勝が越後木場・信濃海津の守備を堅くし(五月二十九日条・六月十二日条)、前田利家は能登の百姓に荒蕪地の開墾を命じ(六月是月条)、羽柴(丹羽)長重は家督相続直後のこの時期に所領安堵・諸役免許の再確認を集中的に行っている(五月十六日条・六月十一日条・同二十日条・同是月条・七月二日条)。畿内では筒井定次が大和手掻郷の再興を計り(七月二日条)、中国では毛利輝元が千家・北島両家の所領紛争を裁し(五月十七日条)、周防国分寺を安堵した(六月四日条)。九州では、島津忠平と上井覚兼が誓書を交し(六月十五日条)、伊集院忠棟は島津義久に(六月二十日条)、肥前の大村純重等六十余名は後藤家生に(六月四日条)、鍋島信生は波多親に(七月二日条)それぞれ誓書を呈している。
 本冊に於ける死歿者としては、公家の五辻為仲(五月十七日条)、相次いで薨じた土佐一条家の兼定・内政父子(七月一日条・六月五日条)、肥後阿蘇家の老臣甲斐宗運(七月三日条)などがあり、それぞれ伝記史料を収載した。特にキリシタン大名として著名な一条氏の両人は欧文史料(五野井隆史翻訳)の収集に努めた。なお従来「日本耶蘇会年報」として掲出したえう”おら版書翰集の書名は、本冊より「イエズス会日本通信」及び「イエズス会日本年報」と内容に則して区分し掲出することとした。
(目次一四頁、本文三六八頁、欧文目次二頁、欧文本文二〇頁、挿入図版一葉)
担当者 岩沢愿彦・酒井信彦
欧文材料担当者 金井圓・加藤栄一・五野井隆史

『東京大学史料編纂所報』第13号 p.31