「保古飛呂比」佐佐木高行日記十

本冊には、巻四十九から巻五十四まで、すなわち明治十四年高行五十二歳の一年間の記事を収めた。
民権運動の前進に明けたこの年、政府としては、警視庁再置(一月)、憲兵条例制定(三月)の一方、諸参議の熱海会談で立憲制についての合意をはかったが、交詢杜の私擬憲法案、立志杜の日本憲法見込案など民間の憲法私案が続々と作られるという運動の発展にともない、政府内部の藩閥抗争が激化し、意思の不統一が露呈した。陸軍の首脳谷の辞表(三月)、海軍卿榎本の免職と文部卿河野の農商務卿配置替(四月)があり、また三月に大隈が国会開設と政党内閣制を建議すると、七月には伊藤がこれに対して君権放棄と論難するありさまであった。同月、岩倉は憲法起草手続につき進言して政府の一致をはかったが、開拓使官有物払下げの閣議決定は運動と抗争の火に油を注ぎ、七月末からの東北・北海道巡幸もこれを鎮めるカにはならなかった。留守政府の内部や軍部からも批判が高まるなかで、還幸直後十月十一日の御前会議は、官有物払下げ中止と大隈罷免を決定し、翌日、明治二十三年国会開設の詔が発せられた。大隈免官反対の官僚や農商務卿河野等の辞任の後、同月二十一日には、参議と各省卿の兼任制の復活、法律規則審査機関参事院の設置が布告され、新閣僚が任命された。この間、民権運動は大きく高揚し、十月には自由党の結成をみた。
高行は、元老院副議長として、また岩倉、元田、谷、土方等の人脈を通じて影響力を行使し、民権運動に対抗して君権の確立を唱える一方で藩閥批判を展開し、天皇や三大臣に入説して、官有物払下げ反対と大隈打倒を掲げて中正論者の結集をはかった。このような活動を背景にして高行は、十月の政変で工部卿兼参議として入閣を果したのである。
本冊には、前年に引続き、またとくに巡幸のこともあって、奥羽各地からの書簡類が収載されているが、注目すべきは政情にかかわる来簡、情報および高行自身の建議、論評の類で、政治の舞台裏を露わにしてくれる。また、この年は対外的に大きい動きはなかったが、三月の露帝暗殺、六月の独墺露三帝同盟等のヨーロッパ情勢が、わが政情に影響を与えた点は少なくない。この点で、駐露公使柳原前光が毎月高行に送った書簡は特筆に価する。
(例言・目次各一頁、本文五九〇頁)
担当者 山口啓二

『東京大学史料編纂所報』第13号 p.34