大日本近世史料「細川家史料六」

本冊には、前冊にひきつづき、寛永十二年より十五年に至る四年間の忠利宛忠興(三齋)書状二四九通(一三〇七号〜一五五五号)を収めた。
三齋はすでに隠居の身で、十二年には齢七十三年の老齢に達しており、病気がちで、十二年十月廿九日付書状で、「とかく困無正躰候て、文箱之數多ク見申候も、はや目舞心出候躰ニ候条、此以来ハ 公儀之御事ニて我等なども承候ハて不叶儀之外ハ、先状給間敷候、何ら之合力たるへく候、」と述べるほど気力も衰退してきており、そのためか書状の量も減少してきている。また個々の書状の内容も必ずしも詳細であるとはいい難いが、それでも幕政の状況や世相の動きを示す記事は散見するし、島原の乱に関する記事も貴重である。十二年三月、参勤の途次京都に暫く滞留して目を手術し、これいらい書状に花押を据えることを罷め、全て印判(ローマ字印)を用いていることも本冊に収めた書状の全体的な特色となっている。
内容は多岐にわたるが、対幕府関係記事の主なものを掲げれば、家光が諸大名を召し柳川事件を親裁したこと、武家諸法度の発布とそれに対する忠利の対応、参勤交代制の確立と忠利の供連減員のこと、切支丹査検の強化と捕捉の状況、年寄月番制の実施と文書宛先などの間合せ、家光が江戸下向の烏丸光廣・澤庵宗彭を懇に処遇したこと、江戸城普請の経緯、本丸移徙の様子、家光の下問に対する宗彭等前大徳寺住持の返答の次第、昵近の公家鳥丸光廣が江戸にて宅地を与えられたこと、後水尾上皇の女三宮と近衛尚嗣の婚儀につき春日局上洛の風聞、家光の病気の容態、酒井忠勝邸などへの将軍御成のこと、更には、諸大名の転加封の記事や幕府要職の人事記事などが散見する。これらのことは、この時期に家光が〓々煩いながらも、種々の施策を実行に移して幕制の整備を行ない、将軍権力の確立をはかりつつあったことを示すものであり、三齋が「其元万事立御耳候事不成由、被申越候、御威光之つよく成申ほと左様ニ可在之と存候」(一四一七号)と述べているのはその状況を端的に表現したものに他ならない。
この数年、三齋は病気がちであったから、当然のことであるが病気に関する記事は多く、眼疾や癪、或いは咳気・腹痛・足痛・頭痛・血虚・結滞など様々な症状に苦しんでいる。十二年九月には大風により八代城の塀以下が破損し、また船入・石垣普請も行なわねばならない状況にあったが、とても指図の気力はなく、これらの普請も翌年に持ち越す始末であった、尚、八代普請について述べておけば、屋敷廻りの水防ぎの石垣普請は十三年二月に瓦築地様に変更して行ない、八代石堤船入の普請や天主取つき等の普請は不自由を忍び幕府への出願も取り罷め、緊急を要する求麻川石堤の水漏修理の普請のみを行なっている。また、五月には大水のため海手の堤廿間ばかりが崩れたので、徳淵より古麓までの河除普請を行なっている。このように諸事が重なったからであろう、三齋の体調は快方に向わず、上京のうえ養生したいことを幕府に願い出て、同十一月より翌々十五年二月まで約十五ケ日間、京都に滞在し病気療養を行っている。『細川家記』によれば、「京の生れなれハ、京の土になるへきと被仰候也、」ということであったという。半井成信等の投薬を受けたり、痰癪の治療のため毎朝焚火で背中を炙ったり、養生のため外出歩行したりしたが、時には炙り過ぎて体調を崩したり歩行して汗をかき風邪を引くというような始末であった。在京療養が長引いたからであろう、十四年八月には、三齋は病気がすでに治癒しているにもかかわらず参府しないとの風評が立ったようである。時に忠利は在府中で、この空煩いの噂を耳にして使者を三齋の許に遺し、気色の程を実見させるということなどもあった。そのような三齋・忠利父子のやりとりの中で、忠利の意見の如く風評の源は板倉重宗・東福門院附の侍以外にはない、と述べられているのは興味深い。
島原の乱そのものに関する書状は十四通で、この乱における細川氏の地理的位置、忠利・光尚のそのときの働きにくらべれば案外に少ないといわざると得ないが、いずれも確実の情報のもとに書かれているだけあって、島原の乱に関する重要史料たるを失なわないであろう。
担当者 村井益男・橋本政宣
(例言一頁、目次一九頁、本文二八○頁、人名一覧三一頁)

『東京大学史料編纂所報』第13号 p.32