日本関係海外史料「オランダ商館長日記訳文編之三(下)」

本冊は『日本關係海外史料』オランダ商館長日記譯文編の第六回配本で、譯文編之三(下)(自寛永十五年六月、至寛永十六年正月)として、第八代商館長ニコラース・クーケバッケル(Nicolaes Couckebacker)在職期間中の公務日記の第三で最後の部分、既刊原文編之三所収の一六三七年八月九日より一六三九年二月三日に及ぶ一七か月の記事の後半、一六三八年八月一日(寛永十五年六月二十一日)以降の譯文を収める。
 島原の乱後の江戸参府から帰った商館長クーケバッケルは、この年の南の季節風に乗って相ついで平戸に入港するオランダ船を迎え、また、送り出して、その任務を上級商務員フランソワ・カロン(François Caron)に引継ぐ日まで、その日記を書きついでいる。
 八月二十七日には、先に東京に向かったヤハト船サントフォールト(Santvoort)号が無事帰航した。その船長カレル・ハルツィンク(Carel Hartsincq)の航海日記(一六三七年十二月二十日より一六三八年八月二十六日まで)は、同人の第二回東京訪問の全貌を詳細に伝えて、本冊の記事の三分の二を占め、本邦初訳である。
 九月五日にはヤハト船ブレダメ号(Bredamme)で、島原の乱参加直前にバタフィアに赴いたカロンが平戸に帰着して、バタフィア東インド総督アントニオ・ファン・ディーメン(Antonio van Diemen)の商館長交代命令と、松浦隆信及び末次平蔵の各々に宛てた書翰を齎した。これらの書翰は、島原乱後の日蘭関係の向上を予示するいくつかの問題点を含んでいる。クーケバッケルとカロンとは九月十日より四日間長崎に赴き、奉行馬場利重・代官末次を訪問して、これらの書翰を伝達すると共に懸案の生糸取引及び商船出帆時期についての規制の緩和を願い、また十月二十二日から五日間重ねて両人を訪問して両国間の地位の変らぬことを確認した。
 これと相前後して、幕府は島原の乱後の賞罰を明らかにし、松倉氏を処分し、松浦氏を賞し、また、長崎滞在中のポルトガル使節の参府を禁じて出島に監禁する一方、長崎代官を通じてオランダ商館にはポルトガル船舶載品目録や、五箇所商人の長崎奉行宛ての大割符施行願や、シャム王室宛てに唐通事が起草した書翰の写を提供するなど便宜を与えた。末次平蔵が自らオランダ船への投銀を希望し、松浦鎮信は、クーケバッケル・カロン両人を領内壱岐島に案内し、長崎在住のオランダ人ウィルレム・フルステーヘン(Willem Verstegen)が帰国を希望するなど、いくつかの挿話も見出される。
 クーケバッケルは、一月二十五日に末次平蔵の総督宛ての書翰を受取り、二月三日その職務をカロンに引継ぎ、本冊には見えないが、二月十日松浦隆信の総督宛ての書翰を受取り、四月十三日ペッテン(Petten)号で平戸を去った。
 本冊では、ハルツィンクの日記(一二〜一五〇頁)を除く日記本文(一〜一二、一五一〜二二九頁)は、永積洋子訳『平戸オランダ商館の日記』第四輯(岩波書店、昭和四十五年刊)を参照した。また、全六冊の最終巻に当るので、巻末に人名索引・事項索引・船名索引・平戸商館決議記事索引・日記所引文書目録と、既刊五冊の正誤表を附した。
担当者 金井圓・加藤榮一、五野井隆史
(例言一葉、目次二頁、本文二二九頁、正誤表一二頁、索引類五八頁)

『東京大学史料編纂所報』第13号 p.35