大日本史料第一編之二十

本冊には、円融天皇天元五年閏十二月から永観二年二月までの史料を収めている。この時期には、藤原頼忠が引続いて関白太政大臣の地位にあり、永観元年には六十の算を賀せられている(正月二十三日条及び十二月二十一日条)。
 宮廷関係の記事では、まず、天元五年十一月に焼亡した内裏(前冊)の再建の過程が、天元五年閏十二月四日条(造内裏定)・永観元年四月九日第一条(大祓)・同年六月八日条(造宮事始)・同年七月二日条(相撲召合停止)・同年八月七日条(内裏立柱上棟)により知られる。そして、天元六年四月十五日には炎旱及び内裏焼亡により、永観と年号が改められた。
 宗教関係では、円融寺供養(永観元年三月二十二日条)、同寺における大般若会(同年十月二十五日第一条)、右大臣藤原兼家の比叡山横川薬師堂供養(同第二条)及び同恵心院供養(同年十一月二十七日条)の記事が見える。
 社会関係では、検非遣使による京中及び畿内の弓箭を滞する者の追捕(永観元年二月二十一日条)、大蔵省率分蔵扉の盗による焼損(同年三月二十七日条)、内膳司平野・庭火御竈釜の紛失(同年十月六日・同月九日・同月十一日及び同年十二月二十五日条)、版位の紛失(永観二年正月四日第三条)の記事が見える。また、永観元年三月二日には中納言源重光第、同年七月五日には故太政大臣藤原伊尹一条第(同日第三条)が焼亡する事件が起き、内裏焼亡に引続く火災の多発の事態に対して、諸陣による火事の禁遏(同年七月七日第二条)・諷誦(同月十一日及び二十一日条)・御祈(同年八月一日第一条)・奉幣(同年九月八日条)が行なわれた。
 対外関係では、既に前年に入宋を決意した(前冊)〓然の渡航が注目される(永観元年八月一日第三条)。本冊では、〓然の宋での朝覲・巡拝・造像などの行動を示す史料を類聚している。
 死没関係では、大内記従五位下菅原輔昭(天元五年是歳第一条)・権少僧都長勇(同第二条)・興福寺別当大僧都定昭(永観元年三月二十一日条)・非参議治都卿従三位藤原季平(同年六月十一日第二条)・参議正四位下修理大夫橘恒平(同年十一月十三日条)・内供奉十禅師千観(同年十二月十三日第二条)・権少僧都安快(同年是歳第三条)・従五位上能登守源順(同第四条)・藤原輔相(同条に合叙)の伝を収録している。興福寺一乗院開祖定昭は法相・真言を兼学し東寺一長者・金剛峯守座主も歴任し、臨終に際して法華径を誦したと伝えられる。千観は空也の教により遁世して摂津箕面寺・金竜寺に住し、八箇条起請・極楽国弥陀和讃や法華三宗相対鈔等の著述も多い。三十六歌仙の一人、源順は、和漢に通じ、その著倭名類聚抄やその歌集は著名である。藤原輔相は物名歌に長じた歌人であった。なお愛宕念仏寺蔵千観内供像及び中村庸一郎氏蔵佐竹本三十六歌仙切源順を挿入図版として収めた。
担当者 土田直鎮・皆川完一・林幹彌・石上英一
(目次一五頁、本文三六〇頁、挿入図版二葉)

『東京大学史料編纂所報』第12号 p.73