大日本近世史料「幕府書物方日記十二」

本巻には、内閣文庫所蔵の書物方日記十(享保二十一年正月より六月まで、四月に元文と改元)・十一(元文元年七月より十二月まで)の二冊、一年分を収めた。
 前年(「幕府書物方日記十一」所収)より始まった書物方奉行の詰番制は、前日に詰番書を目付に提出して勤務する方式が固定され、同時に、以前から実施されてきている月番制とともに実施された。もとより不測の事故による代替勤務も行われているが、それほそう多いことではない。また重要事項の協議の場合には、奉行の総出仕があることも以前同様である、
 この一年は、人事に異動もなく、比較的平穏な年であって、書物方同心の二・三に病人が出たり、奉行・同心の縁者に病人・出産・死亡があったほかは、特に記すべきほどのこともなかった。
 ただこの年で、記すべき出来事の幾つかは、まず京の朝廷で四月二十八日に「元文」と改元されたのが、書物方会所に達せられ廻覧されたのが五月九日であることと、医書の出納の頻繁であること、「園太暦」などの古写本の校合・書写の仕事を幾通りか行っていることである。以前、奉行堆橋主計(俊淳、享保十九年五月二日死去)が校合した「康富記考異」を確認し、今後康富記を上呈の際には考異も添えるようにと達せられたことや、奉行桂山義樹らを中心に「園太暦」「類聚国史」「日本紀略」「日本後紀纂」「中右記」の諸本との校合作業、また新しく長崎へ渡来した「古今図書集成」を旧本と校合して返却(十月十五日)したりしている。さらに書物方同心小沢又四郎らに、「園太暦」「類聚国史」「日本紀略」の書写を命じ、また「礼儀類典目録」の筆写、「御書目録」の書継ぎを行い、そのために水戸徳川家・林家などの諸本を借入れたりしているのである。筆写に精勤した小沢又四郎には金三両の下賜があった(十二月二十五日)。
 この点を考えるならば、書物方の仕事が、単なる文庫の書物の出納・補修だけではなく、諸本の校合・欠本の補写、また諸本の書写などによる文庫の整備・充実が計られていることにも注目すべきであろう。
 また以前から問題となっていた小笠原民部書付は、偽書である疑いが濃く、注意されていたが、九月に「諸家書付」の再検討をおこなって、同月十一日には、その書付の内容項目を詳細にし、さらに將軍吉宗の裁可を經て、「此分不残焼捨候」の下ゲ札を附し、書物目録より削ることを断行している。これは文庫圖書の整理の一部であるということができよう。
 五月十二日には貨幣改鋳の書付が、また九月十八日には服忌令・同添書の廻覧がおこなわれている記載は、さきの改元の事項とともに、この年の特記すべき事といえるであろう。巻末には、「人名一覧」「書名一覧」を添えている。
(例言・目次四頁、本文二九四頁、人名一覧二三頁、書名一覧四六頁)
担当者 山本武夫・松島栄一

『東京大学史料編纂所報』第12号 p.77**-78