大日本古記録「建内記七」

本冊には、前冊のあとをうけ文安元年四月から文安四年閏二月までの、本記および紙背文書を収めた。なお、( )内は底本に用いた諸本である。*印以外は自筆の正記。
文安元年四月記・同紙背文書(宮内庁書陵部所蔵伏見宮本建内記第十九巻・第二十巻)
文安元年五月記・同紙背文書(同 第二十一巻)
文安元年六月記 二十一日まで・同紙背文書(同 第二十二巻)
*文安元年月目未詳(京都大学附属図書館所蔵建内御記抜書)
*文安二年十月後小松院十三回忌禁裏懺法講記(内閣文庫所蔵勧修寺家本御懺法講部類の内)
文安四年正月記・同紙背文書(京都大学附属図書館所蔵菊亭本建内記第十一巻・田中穰氏所蔵建内記第三巻)
文安四年二月記 十六日〜三十日・同紙背文書(宮内庁書陵部所蔵伏見宮本建内記第二十三巻)
文安四年後二月記 二十三日以降(同第二十四巻)
前半の文安元年の記事では、幕府の安堵をえたにもかかわらず、いぜんとして建聖院の返還が意に任せず、記主時房の苦慮するさまが散見する。また後半の文安四年の記事からは、時房が応永元年二月二十七日生まれであること、成房が冬房と改名し蔵人右中弁として活躍しはじめたことなどを拾うことができよう。時房は文安二年十二月二十九日、念願の内大臣に任ぜられたが、翌年正月十六日、上表もせず内々の申入れでこれを辞退する。もちろん未拝賀のまゝであった。これは洞院実〓の訴によって、その官を譲らねばならぬことになったためらしいが、この間の日記は欠けているため、詳しいことはわからない。
なお、図版に用いた文安元年六月十八日の条について一言すると、「赤松播磨守与有馬………」以下を、時房は一度は見せ消ちにしたものの、後度これをあらため復活させようとして、傍に「生(いき)」と注したものである。翻刻では、充分これを示しえないため、図版にして掲げたものである。大日本古文書東大寺文書十所収の平安時代の同じような例とあわせみるとき、案文作成の推敲の経過を示すものとして興味深いものがある。
担当者 益田宗
(例言一頁、目次一頁、本文二九九頁、図版一葉、岩波書店発行)

『東京大学史料編纂所報』第11号 p.24*-25