大日本近世史料「幕府書物方日記十一」

本冊には、書物方日記の「日記八」(享保二十年正月〜六月)・「日記九」(同七月〜十二月)を収める。本日記は、本年より概ね一年分を二冊に分割装幀している。また、外題もこれまでは「留牒」とするものと「日記」とするものとが存したが、閏三月二十七日記に「此留牒外題、今日より日記と改申候」とあるごとく、外題は以後「日記」と記入されている。また、この年より会所詰番制が定まり、勤務形態の変化がみられ、日付・天候・詰番奉行の名が毎日の最初に記入され、記載様式が整備され始めたようである。尚、詰番書は、初めは、その当日に目付に提出されていたが、二月二日よりは前日提出に改められている。
 書物奉行は前年に引続いて奈佐又助勝英・水原次郎右衛門保氏・川口頼短信友・桂山三郎左衛門義樹・深見新兵衛有隣で、同心の異動としては浜野藤蔵が三月五日に新任され、宮寺五兵衛が七月二十七日に病死している。
 本冊においてとくに注目すべき事項は、まず前年の六月から順次下命があり次第に出納されてきた中国の地誌類(府志・県志等)の御用が一応終了したことである。閏三月には府志類の上呈も御目録の末に近付いたので、丹羽正伯に名山遊覧志の類は如何すべきやを諮り、物産の記事無くとも差上ぐべしの返答をえて、これらをも含めて上呈し、五月二十三日に終了している。これらの下命は、庶物類纂の御用のためで(十九年六月五日記)、内山覚仲・稲生孝与・丹羽正伯らにより庶物類纂の増補が完成するのは、これより三年後の元文三年である。次に、「明日記」の欠本調査・「皇明実録」外題巻付の吟味・「十三経註疏」の落丁吟味・献上本「類聚国史」の校勘補写などが行われていることである、明月記の吟味は正日十四日に下命があり、年月の不足分・日数の欠如部分を「明月記闕巻考」一冊・「明月記闕日考」一冊に纒め、二月十四日に上呈している。これより以前、闕巻照合につき水戸本借入を命ぜられていたが、二月十六日に至って漸く実現し、桂山義樹と相識の水戸藩儒官の依田処安の斡旋により水戸本の「明月記補遺」二冊・「明月記附録」一冊の借用がなされ(閏三月二十三日記)、転写がなされたのである(九月十六日記)。さらに、依田より参考のために届けられた「明月記抜萃」一冊と、林家本書写の「明月記略」と対校して、水戸本の朱書部分のみを書写本に記入し、その旨を跋に認めることゝされた(八月十二日記)。また、「皇明実録」の外題巻付に誤りあることが発見されたのは閏三月二十五日で、その翌日より全巻を手分けして点検することとなり、八月二十二日に終了している。「十三経註疏」の落丁吟味は五月二十二日に開始して六月十一日に終了、この補写は林大学頭に命ぜられたき旨を上申したが、書物方にて行うこととされた(六月二十二日記)。
 その他、享保七年諸向上呈書物の目録が作成されていること(五月三日記)、御朱印長持のうち寛文四年の一棹と享保四年の六棹は、本年の風干より特別の措置がとられるようになり、これらは特別に御数寄屋にて風干がなされ、封印も書物奉行封印から老中封印に改められていること(六月二十七日記)、なども目立った記事である。
 なお、巻末には例の如く、「人名一覧」「書名一覧」を添えた。
(例言・目次四頁、本文三〇八頁、人名一覧三〇頁、書名一覧五一頁)
担当者 山本武夫・橋本政宣

『東京大学史料編纂所報』第11号 p.26**-27