東京大学史料編纂所

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正倉院文書調査

 昭和四十九年度の正倉院文書調査は、十月二十八日(月)より十一月二日(土)までの六日間、例年の如く奈良の正倉院事務所に出張し、その修理室に於て続修を中心とする原本調査を行なった。
 本所が『大日本古文書』編年文書を編纂するため、正倉院文書の調査を開始したのは明治三十三年のことであるが、昭和十五年に至って編年文書二十五冊が完結し、その後は東南院文書の調査・出版にかかり、四十一年東大寺開田図の刊行を以て正倉院関係の文書の出版は一応完了した。今後は同文書に再整理・再校訂を加えたやりなおし出版が必要であり、その要望も学界の中にはかなり多い。
 現在われわれが従事している調査は、幕末以来の古文書整理の再検討であり、散在する断簡の蒐集・整理と、その接続の確認を主たる目的としたものである。そのため断簡一点一点の外形調査を丹念に行なっているわけであるが、今日までに正集四十五巻の調査を一応終了し、続修五十巻の半分近くに到達した。その間に得られた新しい知見はかなりの量になったが、今後、正倉院文書の構造が明らかになるにつれ、新発見はさらに増大するであろう。
 いままでのところ、この調査結果はほとんど公表されたことはないが、周知の如く、正倉院文書は本所以外の研究者には調査が許可されていないものであるから、本所としては学界に対して調査成果の発表の責任を強く感じないわけにはいかないのである。調査報告書についてはいろいろな形式が考えられ、慎重に検討を要する問題であるが、正集・続修より続々修に至る現在の整理形態を土台にして、各断簡について形態・接続など詳細な説明を加え、その表裏関係を明示する目録を作成するのが、最も有効な形式であろうという考え方もある。しかし本誌ではその余裕がないので、今回は調査の一端として「千部法華経校帳」の復原結果を報告し、その責めを塞ぐことにしたい。
 なおこの報告は、本誌第六号一三三ペ—ジに記した昭和四十五年度の報告と関連するところがあるが、先回は筑前国戸籍の復原について報告したものであり、今回はそれを反故として料紙に利用した「千部法華経校帳」に関するものであるから、取扱う断簡には重複するものがある。
 千部法華経は、法華経千部八千巻を書写した大量写経で、東大寺の写経所に於て天平二十年正月十二日に始められ、天平勝宝三年六月に終った。『続日本紀』天平二十年七月丙戌条に「奉為太上天皇奉写法華経一千部」とあるのは、四月に崩じた元正天皇追福のための写経であるが、もしもこれが正倉院文書にみえる千部法華経と同一のものであるとすれば、この写経は正月にそのころ病あつかった天皇の平癒を祈念して始められたものが、のちに追善の意味を持つに至ったということになろう。 
 それはともかくとして、いま問題にする「千部法華経校帳」は、現在正倉院文書の続々修五帙九に収められる全三十五紙の帳簿のことで、『大日本古文書』十ノ四八七ペ—ジ以下に収載されているものである。この文書は首に「校帳千部」と表裏に書かれた題籖がつけられており、天平勝宝三年五月二十九日の記事を最後として、そのあとにかなりの余白があるから、そこで帳簿が終るのであろう。しかし首部についてはなお問題があって、天平二十年の十一月十三日からの校経の記事をこの帳簿の書き出しとは考えにくいし、よくみると、「校帳千部」の題籖もこの部分にじかにつけられたものではなくて、整理の際に新しい別紙をつぎ足して、それにつけたものであることがわかる。
 とすれば本来この題籖はここになかったことになるから、この帳簿を「千部法華経校帳」とすることも、かなりあやしいものとなる。しかしこの帳簿の内容はまさに千部法華経の校正に関するものであるから、この前に続く部分があったと考えなければならない。
 そこでこれに接続する断簡を搜し求めると、続修六の第二断簡一紙の裏(『大日本古文書』九ノ六一八〜六二〇ペ—ジに「二十部華厳経充装〓并複校帳」として収める)がそれに該当する。外形上は特に接続のきめ手になるものはないが、内容上は前後ぴったりと合致し、筆蹟も両者同一である。この断簡は大宝二年筑前国嶋郡川辺里戸籍のK断簡(一ノ一三四〜一三六ペ—ジ)の裏に書かれたものである。
 次にこの前に接続するものが、『蜂須賀侯爵家文書』中の断簡二紙(二十四ノ五二八〜五三〇、現文化庁所蔵)であり、両断簡に分れた文字の痕跡が合致するから、外形上からはっきりと接続を確認することができる(口絵参照)。この断簡は筑前国戸籍。断簡(一ノ一三九〜一四二)の裏に書かれたものである。なお国立史料館所蔵『東大寺正倉院文書』(小杉〓邨影写、『大日本古文書』一にいう「小杉本」)の戸籍・銭用帳・月借銭の冊をみると、筑前国戸籍のK断簡の次にO断簡が貼りつがれているから、その裏面についていえば、K断簡の裏の前にO断簡の裏が貼りつがれていたことを示しており、明治八・九年に〓邨が影写した時まで両断簡は分離していなかったのである(同書の戸籍・計帳の冊によるとO断簡は分離した形で影写されている)。
 次に、先回も報告したように、戸籍のO・J断簡は〓邨の影写後切断されるまで連続していたわけであるから、J断簡の裏、すなわち続修六の第一断簡二紙の裏(九ノ六二〇〜六二三、これも『大日本古文書』は誤って二十部華厳経の校正に関するものとしている)が、この前に連続することになる。
 以上のことから、千部法華経校帳には、筑前国戸籍のO十JとKの二断簡の裏がこの順序に利用されたことがわかるから、もしもこの戸籍が端または奥から順次切られて行ったということが判明すれば、この利用の順序は戸籍断簡の配列を考える手がかりになるであろう。しかしこのような調査はまだ十分には行なわれていない。
 さてこの前には続修二の第二断簡の裏にある「千部法華経校帳」二紙(三ノ五二〜五五)が接続するが、両断簡は朱鈎が一致し、この接続は確実なものと認められる。続修二�裏は、この前に「以天平廿年正月十三日自金明寺奉請法花経本経四部」で始まる文書(三ノ三一)一紙が接続していて、計三紙よりなる。『大日本古文書』がその最初の一紙を「写経請本帳」の断簡として分載したのは、同書が編年で正倉院文書を編纂しようとしたために起った手ちがいである。
 この続修二�の表は大宝二年御野国加毛郡半布里戸籍A(1)断簡(一ノ五七〜六一最終行)であるが、これを影写した〓邨の『東大寺正倉院文書』戸籍・銭用帳・月借銭をみると、この戸籍断簡の左端に「校帳千部」の題籖が写されている。このことはこの断簡の裏の右端に「校帳千部」の題籖がついていたことを示すものであろう。続修二�裏の右端を検すると、「以天平廿年正月十三日」云々の前の上下の角が斜に切られており、はがしとられた糊の痕が残っているから、ここに往来軸がつけられていたことは確実である。現在続々修五帙九についている「校帳千部」の題籖は、〓邨の影写が示しているように、本来は現在の続修二�裏の首についていたのである。
 以上で「千部法華経校帳」の全体が復原されたことになる。改めてその紙数を数えると、全部で四十三紙になるが、これは現在の紙数であって、先にも述べたように『蜂須賀侯爵家文書』中の断簡は、この校帳の中から片方は継目をはがしとり、片方は字面を切断して生じたものであるから、本来は四十二紙であったわけである。その分量を大づかみに表現すれば、『大日本古文書』に組んで約六五ペ—ジ分ということになる。
 最後に復原の結果を整理して示すと、「千部法華経校帳」は、
  続修二�裏(三ノ三一、五二〜五五)
  続修六�裏(九ノ六二〇〜六二三)
  蜂須賀侯爵家文書(二十四ノ五二八〜五三〇)
  続修六�裏(九ノ六一八〜六二〇)
  続々修五帙九(十ノ四八七〜五三九)
の順に、本来は接続していたのである。
(稲垣泰彦・土田直鎮・皆川完一・岡田隆夫)


『東京大学史料編纂所報』第10号p.83