東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第十一編之十五

 本冊は正親町天皇の天正十三年四月十八日から五月十三日に至る史料を収める。
 この期間の政治情勢として中央では、羽柴秀吉による紀州征伐の一環太田城攻略(四月二十二日条)があり、前冊の根来・雑賀及び奥郡攻略の条(三月二十一日・二十五日条)と照応、また四国征伐では、五月一日・同四日・同八日条に秀吉の諸將や毛利氏の動向が窺え、羽柴秀長の和泉・紀伊両国支配の条(五月八日)では、紀州征伐の終結によるこの措置が、四国征伐への布石でもあることを窺い得る。次に関東では、下野の壬生氏をめぐる佐竹・宇都宮両氏と北条氏との抗争(四月十九日・二十九日条)、奥羽では伊達政宗による蘆名氏侵略の開始(五月十三日条)、九州では大友氏の部将戸次道雪・高橋紹運の龍造寺氏圧迫(四月十八日条)、島津氏の肥後進出に対応する島津忠平の守護代職補任(四月二十四日条)等がある。また秀吉の山城檢地につき、社寺・公家衆に対する指出徴収の史料を収めた(五月十三日条)が、指出帳の一部は便宜割裂して十一月二十六日社寺・公家領充行の条に附収することとした。
 宗教関係では、日吉杜本殿立柱(四月十九日条)・長門一宮二宮の禁制(四月二十四日条)・大樂院来宗の金剛峯寺〓校職補任(五月六日条)などを収め、とくに多武峯寺領の保全に対する寺側の努力(四月二十七日条)、本願寺の摂津中島移建(五月四日条)などは、多武峯の大和郡山移建・本願寺の京都復帰に関する史料として注目されよう。なお四月二十四日・二十六日・五月八日・十三日の条に収めた島津義久加判衆上井覚兼の日記には島津氏諸将の宗教心、文化的教養、琉球との国交関係などが示されている。
 死没・伝記史料には常陸江戸�の土岐治英(四月二十五日条)出雲富田月山城の冨田(毛利椙森)元秋(五月三日条)下總佐倉の千葉邦胤(五月七日条)権大納言甘露寺経元(同日条)がある。元秋については本年十二月三日条に収める毛利元康(元就七男、元秋同母)の月山城領有の史料を参照されたい。また甘露寺経元の花押、永祿五年十月十五日附来阿弥聖人充正親町天皇綸旨(蓮華寺文書)の差出にみられる形態は類例を求め難いようであるが、本綸旨は正文と認められるので掲出した。今後類例の発見に留意したい。なお、彼の筆蹟として本冊に掲載したもののほか、本所架蔵「親王御元服記」(貴18/3)−経元の書写にかかる文明十二年十二月二十日勝仁親王御元服記〈中山康親卿記〉−が、端裏書によって彼の自筆と確認されていることを附記する。
(目次七頁、本文四〇九頁、欧文材料七頁、挿入図版一葉)
担当者 岩澤愿彦・酒井信彦


『東京大学史料編纂所報』第10号p.36