大日本史料第十編之十五

本冊には、正親町天皇天正元年四月一日条から、同月十二日条までの史料を収めている。
 本年は、七月に将軍足利義昭が織田信長によって、京都からの退去を余儀無くされて室町幕府が滅亡し、織田政権の一層の充実が計られた年に当っている。本冊では、そこに至る両者の抗争をめぐる動きが中心となる。
 すでに信長から行動の規制をうけ、失政を叱責されていた義昭は、武田信玄・浅井長政・朝倉義景らと結び、本年二月二十六日、信長打倒の兵を西近江に挙げ、三月七日、信長の質子を斥けて敵対した。一方、信長は、同二十九日、岐阜から上京して知恩院に陣し(以上前冊収録)、京都郊外に放火し、義昭を威嚇するとともに、和議を申し入れたが、義昭の拒絶にあい、上京を焼き(下京は信長に服して罹災を免れた。この問題については、ルイス・フロイスの興味深い指摘がある)、二条城を囲んで義昭を牽制した(四月四日条)。この事態に、勅使二条晴良らが双方に遣わされ、四月七日、和議が成立し、翌日、信長は帰国し、二十七日、誓書が交換された(四月七日条)。
 次に、本冊の大部分は、甲斐国守護武田信玄(晴信、剃髪して徳栄軒信玄、法性院、従四位下、左京大夫、大膳大夫、信濃守)の伝記史料にあてられている。言うまでもなく、信玄は優れた軍略によって、信濃・駿河・遠江・三河・上野・武蔵の各地に転戦して勢力を拡大し、分国の経営にも多くの実績をあげ、神仏への信仰も篤く、文芸の修養にも努めた戦国時代の名将として知られている。遺言によって喪を秘め、遺骸は甲府躑躅が崎館に安置されていたが、その死の風聞が早くから知れわたっていたことは、本条のはじめに収められた上杉家文書以下によって理解される、葬儀は恵林寺で三年後の天正四年四月十六日に行なわれた。また、系図、過去帳についで、仏事に関する史料は、一〇〇回忌までを掲げ、以下、信仰、学芸、武術・兵制、法制、経済、交遊、妻妾・子女の各項に史料を分類し、連絡按文が附されている。また、参考史料からは、いわゆる甲州流軍学に与えた信玄の影響を窺い知ることができよう。
 なお、本冊に収録された多くの語録類については、玉村竹二氏に御教示をえた。
担当者 菊地勇次郎・染谷光広
(目次三頁、本文四〇三頁、欧文目次二頁、欧文本文十九頁、挿入図版一葉)

『東京大学史料編纂所報』第10号 p.35*-36