東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第二編之十九

 本冊には、後一条天皇治安三年三月から同年十一月までの史料が収めてある。
 まず、この間における入道前太政大臣藤原道長の主な行動についてみると、三月十日(一三頁以下)、彼は法成寺において万灯会を行い、太皇太后(藤原彰子)もこれに臨席した。その後、彼は病に罹り(五月一日の条、七一頁)、このため五月二十八日から四十九日間、同寺阿弥陀堂において逆修を行うとともに(八二頁以下)、六月八日には、同寺に新堂(薬師堂)を造立するため、関白左大臣藤原頼通以下に、その礎石を曳くよう命じている(同日の第二条、一〇四頁以下)。病平癒の後、彼は金剛峯寺参詣を思い立ったが、その室源倫子六十の算賀のことがあり(十月十三日の条、二六一頁以下)、延引して十月十七日に参詣の途についた(二八三頁以下)。この時の諸寺巡礼の模様については、彼に随行した源長経の修行記(『扶桑略記』所収)によって、かなり詳しく知ることができる。
 また、道長は大殿として政務にも関与し、関白・上卿などに指示を与えている。延暦寺と賀茂社との争論(四月五日の条、四七頁以下)や小一条院(敦明)但馬御荘司と同国郡司との訴訟(同月十九日の第三条、六三頁以下)などは、その一端である。
 次に、右大臣藤原実資についてみると、彼は任大臣(第二編之十七、治安元年七月二十五日の条、一八七頁以下)の後、今年六月二日に至って、鹿島・香取両社に奉幣して、封戸を寄進するため、使を発遣し(同日の第一条、九〇頁以下)、ついで、十一月二十五日、勧学院と施薬院にも封戸を寄進し、後日、勧学院学生等の参賀を受けている(同日の第二条、三三六頁以下)。
 本冊において、その事蹟を集録した者は、但馬守橘則隆(六月五日の条に合叙、九五頁以下)・前備前権守藤原景斉(七月十七日の条、一二二頁以下)・民部大輔源顕定(八月四日の条、一四八頁以下)・前但馬守源国挙(能忍)(九月二十日の条、一九一頁以下)・権中納言源経房(十月十二日の条、二二四頁以下)などである。このうち経房は、安和の変で失脚した源高明の四男で、権中納言正二位にまで昇進したが、寛仁四年大宰権帥を兼ねるに及んで、翌治安元年西府に赴任し、任所において薨じたものである。
(目次一三頁、本文三三八頁)
担当者 土田直鎮・渡辺直彦・河内祥輔


『東京大学史料編纂所報』第10号p.35