「保古飛呂比」佐佐木高行日記七

本冊には、巻三十七から巻四十まで、すなわち明治九年高行四十七歳の一月から同十年十二月までを収めた。
明治九、十両年は、新政府に対する士民の政治批判が、あいつぐ騒擾・叛乱の末、西南戦争という決定的な展開をみせた時期であった。すなわち、対外的には日朝修好条規調印(九年二月)、小笠原管治通告(九年十月)をもって、領土問題および隣接国との国交関係の確定が終り、一定の安定をえた新政府が、内政面では、廃刀令(九年三月)、奥羽巡幸(九年六月)と士民の批判を封じつつ、元老院に勅して憲法起草を命じる(九年九月)など、新たな方途を推し進めようとしたのに対して、九年十月には神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族叛乱が相呼応して起り、これを鎮圧するや、十二月には茨城・三重・愛知・岐阜・堺の諸県に地租改正反対の農民蜂起が拡がり、十年一月地租を地価の二分五厘に引下げて農民を宥め、関西行幸によって西日本の士民の動揺を鎮めようとしたが、二月ついに西南戦争が勃発したのであった。
元老院議官となった高行は、九年四月母の八十歳の賀の祝詠を貴顕諸公から受け得意の絶頂にあったが、同年十月の士族叛乱に際しては、中島信行とともに高知県に派遣され、立志社を中心とする反政府動向の探索・鎮圧に当り、翌年の西南戦争に際しても高知県に派遣され、六月より十月に至る間、同じく探索・鎮圧の指揮をとった。
本冊には、高知県出張に際して高行が指示をうけた岩倉具視をはじめ、大久保利通・伊藤博文等の政府首脳、大書記官中村弘毅、旧藩以来の盟友斎藤利行・谷干城・土方久元、現地において高行の耳目となった原徹・堀内良知・今橋巌・吉彦貞武・有馬純堯等からの書状および高行自身が出張先より出した書状等が収録されており、立志杜を中心とする高知県の士民の動向と、これに対する探索・鎮圧の状況について詳しく伝えている。
(例言一頁、目次一頁、本文四四七頁)
担当者 山口啓二

『東京大学史料編纂所報』第10号 p.40**-41