「保古飛呂比」佐佐木高行日記六

本冊には、巻三十四から巻三十六まで、すなわち明治七年高行四十五歳の一月から同八年十二月までを収めた。
明治七、八両年は、中央集権国家体制を固めた新政府が、内外政ともに新たな方途を模索し始めた時期であった。すなわち対外的には、下関事件償金支払の完了(七年七月)、英佛両国横浜駐留軍の撤去(八年二月)、日露千島樺太交換条約の調印(八年五月)など、欧米列強との民族的矛盾の解決をはかる一方で、琉球藩民殺害を理由とする台湾出兵(七年五月上陸)と日清互換条款の調印(七年十月)、琉球藩の対清断絶(八年七月)、江華島事件(八年九月)など、中国・朝鮮両国に対しては硬外交に転じ、内政面では、地租改正事務局の設置(八年三月)、家祿・賞典祿の金祿化(八年九月)など、従来の政策を権進したほか、陸軍士官学校条例の制定(七年八月)、旧藩士族鎮台兵の解散(八年三月)、警視庁の設置(七年一月)、検事職務章程・司法警察規則の制定(七年一月)、行政警察規則の改正(八年三月)など、軍隊ならびに警察制度の近代化をはかる一方で、民選議院設立建白(七年一月)と佐賀の乱(七年二月)という形で噴出した士民の政治批判に対して、詔書を下して元老院・大審院・地方官会議を設置し漸次立憲政体に進む方針を示す(八年四月)とともに、立志社等の政党活動に対応して讒謗律・新聞紙条例を定める(八年六月)など、のちの帝国憲法体制に向って一歩を踏み出したのであった。
この間高行は、明治七年一月再び司法大輔に任ぜられ、司法制度の改革を建議し(七年一月)、また岩倉具視が襲撃され負傷した喰違門事件(七年一月)と佐賀の乱の処理に当るとともに、高知県下の不平分子の動静探索に努め、四月には民選議院反対の趣旨を建白した。七月左院副議長に任ぜられ、元老院設置に当っては、議官の人選について政府首脳に入説するところがあったが、議官増員の際、盟友の斎藤利行とともに議官に任ぜられた(八年七月)。
本冊には、高行が密接な関係を保っていた岩倉具視をはじめ、三条実美・木戸孝允等の政府首脳、斎藤利行・原徹・山川良水・松下綱武等旧藩の同志からの書状その他、上述の諸事件に関する史料が収められており、中央、地方とくに高知県下の政情を生々しく伝えている。
(例言一頁、目次一頁、本文三四四頁)
担当者 山口啓二

『東京大学史料編纂所報』第10号 p.40*