東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古記録 言経卿記 九

 本冊には、慶長三年七月より同四年六月まで一ケ年分の記事を収めた。記主山科言経は、天正十三年六月以来勅勘の身で、徳川家康より十人扶持(毎月京升一石五斗)を受けていたが、主として夫人の縁により、興正寺並びに本願寺の庇護のもとに、堀川に居住し、医薬をもって渡世していた。三年七月二日の記事には、禁中で豊臣秀吉の病気平癒祈願のため神楽が奏せられたことが見えるが、同月十七日条には、秀吉の病状について雑説があり、伏見で喧嘩騒動のあったことを記している。同月二十九日、聖護院の新宮興意入道親王の初入峯があって、言経は家康第でこれを見物した。八月十七日、大地震以後大仏殿に安置してあった阿弥陀如来像が秀吉の命によって甲斐善光寺に帰座した。同十八日に秀吉が没したが、訃が秘せられていたため記事はない。十月二十五日、言経は伏見の家康第で、後陽成天皇が病気のため皇弟智仁親王に讓位の旨を仰せ出され、摂家以下に勅問があったことを聞いた。讓位は結局行われなかったが、言経はこの後しばしば医師曲直瀬正紹に天皇の病状をたずねている。
 十一月三日、冷泉為満が伏見で家康に謁したおり、家康から言経の勅勘恩免を禁中に執奏したところ、勅許の旨を仰せ出されたので、これを言経に伝えるようにと言われた。宿願のかなった言経は「祝着本望之至也、珎重々々」と喜びを卒直に記している。感情の表現を極度におさえているこの日記の記事としてはきわめて異例に属する。以後諸所から慶賀の使者があいつぎ、言経もまた諸所を訪問して挨拶した。十二月七日、言経は息言緒とともに参内し、勅免を謝して祝物を献じたが、天皇御不予のため対面は行われなかった。
 慶長四年正月十五日、言経は山科郷の竹を三毬杖の用に献じた。勅勘恩免後は、当番参候をはじめ、朝儀に関する記事も多く記されるようになる。正月二十日、言経は家康より近江に知行所二百石を与えられた。ただし、慶長三年分については、これまでに受けた扶持米十八石を差引いて支給されている。三月二日には、永年頼りにしていた花恩院佐超が没し、同月十日不動堂南野に葬られた。
 このほか、秀吉没後の家康・豊臣秀頼・石田三成等の動静に関する記事、豊国社創建に関する記事、秀頼の金銀奉献の記事等がある。また、典籍や謡本等の刊行・書写・売買の記事、囲碁・将棋・囃の記事等、学問・芸能・信仰・医術に関する叙述も少くない。
(例言一頁、目次一頁、本文二四〇頁、挿入図版一葉、岩波書店発行)
担当者 田中健夫


『東京大学史料編纂所報』第10号p.38