大日本史料第十編之十二

本巻は、正親町天皇の元亀三年の年末雑載(天文・災異・神社・仏寺・禁中・諸家・所領・検注・寄進・売買・貸借・物価・算用・学芸・遊戯・風俗・疾病・死没)を収める。
 前年から引き続き、織田信長は、将軍足利義昭を擁して、三月には兵を近江に入れ、七月には同国の虎御前山に城いて、浅井長政に迫り、浅井氏を援ける越前の朝倉義景とも対峙し、十一月には部将の木下秀吉等が、浅井・朝倉氏の兵を迎え撃っている。また信長は、四月に河内の畠山昭高の部将を救うために佐久間信盛・柴田勝家等を遣わして、河内の三好義継や大和の松永久秀等と兵を交え、浅井・朝倉氏を使嗾する本願寺の顕如光佐も牽制した。これについて足利義昭は、八月に甲斐の武田信玄を介して、信長と光佐との間を調停している。
 また光佐は、正月に信玄へ書状を送り、信長の背後を脅かすとともに、越後の上杉謙信をも牽制するように要請しているが、謙信は、閏正月に兵を上野に入れ、八月には越中の一向一揆を平定するため、親ら同国の新庄城に居て同国の富山城を攻め、飛騨にも兵を進めた。そして一方三月には部将の長景連を信長のもとに遣わして、延暦寺の再興及び浅井長政との和平を奨めている。
 この間に信玄は、越中の一向一揆に通じて謙信を牽制し、また相模の北条氏政との和を保って、背後を固めると、十月には信長の虚に乗じて、信長と結ぶ遠江の徳川家康の支城二股城を降し、部将の山県昌景に三河も侵させた。そして十二月には家康の本城浜松に迫り、迎え撃つ家康と遠江の三方原に戦った。
 こうして信長を中心に、東海・甲信・北陸及び畿内の地域が、割拠の状態から、互に関連し合って一体になってゆくと、中国の毛利輝元も九州の大友宗麟も、それぞれに経略を進めながら、中央の動きと結びついていった。
 この雑載中、おもに神社や物価・算用の条に収めた春日社司祐礒記・春日社司祐金記・春日社司祐国記は、単に春日杜の神事等を記しているだけでなく、所領の条に収めた尋憲記等とともに、その記事のなかに、名主職をもつ春日社の社司たちの動静や神供米の収納等を通じて、荘園管理の一端に触れることができ、上述した情勢下の大和にあって、春日社と興福寺がその権威を保った所以もうかがえる。神社や仏寺の条を見れば、春日社の神事や興福寺の仏事は、たとえ何らかの支障が起っても、こうした基礎があって大略通常通り行われ、東大寺・延暦寺等では、宗義の講論が続けられていたことが知られる。東大寺図書館所蔵の花厳宗香憲抄・倶舎論講釈や叡山文庫所蔵の五塵抄、高野山宝亀院所蔵の学道翌日表白私等は、その一例で、とくに五塵抄は、いわゆる関東天台の水準を示す史料である。
 神社・仏寺の条の造営修理の項や寄進の条には、戦国大名やその家臣等に維持される地方の社寺の状況を示す史料が収めてあり、下総の香取文書の御遷宮用途雑物等事・筑前の高祖神社棟札・安房の鶴谷八幡神社棟札・武蔵の物部天神社国渭地祇神社天満天神社所蔵の北野天神縁起・信濃の竜雲寺僧籍帳は、その著しい例である。
 とくに鶴谷八幡神社棟札は、足利藤政が、父の古河公方足利晴氏や兄の足利義氏の没落後、この時期に、安房の里見義弘に頼っていたことを示し、北野天神縁起は、武蔵の村山党の後裔である山口資信について、また寄進の条の甲州古文書は、武田信玄の臣板垣信安の、厳島神社文書は、毛利輝元の臣児玉元良や細川高国・陶晴賢についての史料となるなど、神社・仏寺の条の往来や贈答の項等とともに、地方武士の文化動向も、あわせて知りうる。そしてこうした地方の社寺の在り方自体が、仏寺の条の灌頂の項に収めた三宝院文書の堯雅僧正関東御下向四度之記や、参禅の項に収めた天叔和尚筆入室法語、学芸・遊戯の条に収めた大江元就集が示すような宗教や文化の伝播に寄与している。これと好対照をなすのは、同じ学芸・遊戯の条に収めた縷氷集の松雲斎記や松屋会記・宗及茶湯日記・今井宗久茶湯日記抜書等が示す堺等の町衆の生活文化で、物価・算用の条に収めた成簣堂古文書の万日記等の史料と、直接に間接に結びついている。
 なお学芸・遊戯の条には、里村紹巴等の連歌の史料、疾病・死歿の条には遣明使の策彦周良とともに入明し、彼の地の医書を携えて帰朝した医者の吉田宗桂の伝記史料が収めてあり、諸家の条の中山家記に見える半井驢庵邸の裏茶屋や天文・災異・風俗の条に収める俗信の史料には、初見と思われるものがある。
担当者 桃裕行・菊地勇次郎・新家君子・染谷光広
(目次二頁、本文四五五頁)

『東京大学史料編纂所報』第1号 p.27*