通航一覧琉球国部テキスト

重点領域研究「沖縄の歴史情報研究」

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通航一覧巻之二十四
 琉球国部二十四「止」
   目録
 一漂着
 一漂着并異国人漂到

通航一覧巻之二十四
 琉球国部二十四「止」
 ○漂着
●昔年より琉球船漂着の時ハ、何国にても島津氏に引渡し、薩摩より帰国せしむる御制度なり、「年代所見なし、慶長十五年以後の事なるへし、証ハ、海防之部、異国船扱方琉球船の条にあり、」
●慶安二己丑年七月六日、唐船一艘薩摩国山川に「揖宿郡に属す、」漂着す、こハ先に渡唐して抑留せられし琉球人を、清朝より護送ありし船なるよし、八月松平「島津」薩摩守光久より注進あり、「証ハ、唐国往来の条にあり、」宝永二乙酉年秋、琉球人駿河国清水浦に「安倍郡に属す、」漂着す、延享二乙丑年夏、また陸奥国に漂着す、宝暦六丙子年六月廿六日、肥前国五島に「松浦郡に属す、」漂着す、よて長崎に挽送り、奉行より同所詰島津氏聞役に引渡す、同十二壬午年四月廿二日、薩摩国附大島に「大島の薩摩附たりし証、大島筆記、中陵漫録等にあり、安永四年八丈島漂着の大島船船頭等より出せし帰島願の書付にも、薩摩国附大島船頭云々と記したり、」漂着、それより薩摩にいたり、扶助ありて帰国せしむ、安永四乙未年五月、志摩国鳥羽浦に「答志郡に属す、」漂着す、文政二己卯年五月十三日、常陸国川尻村に「多珂郡に属す、」漂着す、同年六月十日、水戸殿より松平「島津」中将斉興の家人に引渡さる、
▲宝永二年乙酉の秋、琉球人駿州清水浦に漂着す、
▼大島筆記、
▲延享二乙丑年夏、琉球人逢難風奥州へ吹付られ候、依之、陸を江戸へ来り、薩摩屋敷へ被渡候由、
  用物宰領役       上運天親雲上(ウヘウンテンバイキン)
  同筆者         伊良皆(イラミナ)親雲上
  同荷付手代役      古波蔵(コハクラ)親雲上
  同           瀬名波蔵(セナハクラ)親雲上
           上運天親雲上家来
               比賀仁屋(ヒカニヤ)
               上間(ウヘマ)仁屋
               島袋(シマブコル)仁屋
               金城(カナグスク)仁屋
               棚原(タナバル)仁屋
               大城(オホグスク)仁屋
           伊良皆親雲上家来
               東恩納(ヒカヲンナ)仁屋
               内間(ウチマ)仁屋
               鉢嶺(ハチミネ)仁屋
               新垣(アラガキ)仁屋
           古波蔵親雲上家来
               宮平(ミヤタイラ)仁屋
           瀬名波蔵親雲上家来
               山城(ヤマグスク)仁屋
            真言宗
               元昌
  以上
▼続談海、
▲宝暦六丙子年七月十七日、五島より当六月廿六日、五島領に琉球船壱艘人数拾六人令漂着由にて、右之船人当沖高鉾島の前に挽来る由被相届に付、松平薩摩守聞役平田元右衛門に被相渡之、
▼長崎志、
▼長崎年表挙要、
▲宝暦十二壬子年、琉球国潮平親雲上以下五拾弐人、大島浦漂着之次第、
一拾五端帆楷船壱艘、
   「但、長拾壱丈九尺、横弐丈七尺三寸、」
       以下潮平親雲上主従
            潮平親雲上(シヒラバイキン)
            宜寿須里之子(ケズスサトノシ)親雲上
            照屋(テロヤ)里之子
            潮平子(シヒラシ)
        家頼  上地(ウヘヂ)
        同   東恩納(ヒカヲンナ)
        同   大田(ウラタ)
        手代  諸見里筑登之(モロミサトチクトシ)
        同   崎間筑登之(サケマチクトシ)
        僧   租願(ソクハシ)
       以下船頭主従
        船頭  高良(タカラ)、「西村」
        柁取  当間(トウマ)、「久米村、年三拾三」
        佑筆  具志堅(クシキン)、「西村、年五拾六」
        同   大城(ウラグスク)、「西村、年三拾八」
        同   末吉(スイシ)、「泉崎村、年五拾二」
        同   平安名(ヘアンナ)、「西村、年五拾二」
        同   高江洲(タカヱス)、「西村、年三拾八」
        同   前里(マヘサト)、「渡嘉鋪間切渡嘉鋪村、年四拾四」
        同   新垣(アラカキ)、「西村、年四拾九」
        定加子 照屋(テロヤ)、「東村、年四拾五」
        同   山城(ヤマグスク)、「若狭町村、年四拾壱」
        同   島袋(シマブク)、「西村、年三拾四」
        同   手登根(テトコン)、「若狭町、年弐拾九」
        同   古波蔵(コハクラ)、「渡嘉鋪間切渡嘉鋪村、年四拾八」
        同   喜屋武(キヤン)、「座間味間切坐間味村、年弐拾九」
        水主  富盛(トムリ)、「西村、年弐拾五」
        同   手登根(テトコン)、「若狭町村、年三拾三」
        同   大嶺(ウミネ)、「西村、年弐拾五」
        同   西平(ニンヒラ)、「西村、年拾九」
        同   石川(イシカハ)、「渡地村、年弐拾」
        同   仲井馬(ナカユマ)、「渡嘉鋪間切前村、年三拾」
        同   富里(ホサト)、「渡嘉鋪間切前村、年弐拾九」
 「按するに、交名の内、富里四人あり、また仲村渠三人ありて、其年齢村名等粗同し、其故詳ならす、」
        同   古波蔵(コハクラ)、「渡嘉鋪間切前村、年三拾二」
        同   新城(アラグスク)、「渡嘉鋪間切前村、年弐拾六」
        同   小嶺(クンミネ)、「渡嘉鋪間切前村、年弐拾」
        同   平良(タイラ)、「座間味間切坐間味村、年三拾二」
        同   宮平(ミヤビラ)、「座間味間切坐間味村、年弐拾四」
        同   平良(タイラ)、「座間味間切阿佐村、年弐拾一」
        同   慶留間(ケロマ)、「座間味間切阿意村、年弐拾九」
        同   喜屋武(キヤン)、「座間味間切阿意村、年弐拾八」
        同   渡慶須(トギス)、「座間味間切阿意村、年弐拾五」
        同   富里(ホサト)、「座間味間切阿嘉村、年弐拾九」
        同   仲村渠(ナカンタカリ)、「坐間味間切阿嘉村、年弐拾九」
        同   金城(カナグスク)、「渡嘉鋪間切阿波連村、年三拾壱」
        同   平良(タイラ)、「座間味間切阿佐村、年弐拾八」
        同   仲村渠(ナカンダカリ)、「座間味間切阿佐村、年弐拾壱」
        同   当間(トフマ)、「座間味間切阿佐村、年弐拾壱」
        同   仲村渠(ナカンダカリ)、「座間味間切阿佐村、年弐拾九」
        同   富里(ホサト)、「座間味間切阿嘉村、年弐拾弐」
        同   新城(アラグスク)、「渡嘉鋪間切渡嘉鋪村、年拾九」
        同   富里(ホサト)、「渡嘉鋪間切渡嘉鋪村、年弐拾三」
        船頭雇 長嶺(ナガミネ)、「若狭町村、年弐拾九」
右、宝暦十二年四月廿六日、本琉球那覇の湊を出、同国運天の津に入る、「自注、那覇より二十里余の所、総して里数三十六町を一里と立るの数なり、」天気悪く毎度出戻りし、七月十三日運天を出しに、十五日の晩より十六日まて、大風に逢ひ檣切流し、柁折れ荷物大半はね、屋久島を「自注、屋久島ハ、薩摩山川の湊まて三十六里計、」見懸て乗りしに、西南風あらく、其間已に淪没せんとせし事度々なり、辛ふして三日三夜子丑の方へ流る、柁も折れしゆへ、帆の切れなとを船へ付ひかせ、兎角して漸く霧の中に島山を見付ぬ、何れも何国やらんと疑ひけるに、潮平謂るハ、山の囲ひ本唐の様に見ゆと、船中に十九年前「自注、延享元甲子年、」奥州へ流されしとき、乗りたるもの壱人あり、「自注、山城なり、」其時分流さるゝ内、見覚へたる方角彼是を考ふるに、多くハ日本四国辺の地なるへきよしいふ、さらハ流すに心得ありとて、艫より入れハ檣の在所等、日本の船と殊の外違ひ、異様に見ゆへしとて、官蔵「自注、船中上官の居所、」の入口の上に穴を明け、八帆の柱を立檣のことくし、舳の飾を切流し舳逆しに流し入れり、是少しにても異様に見えぬ様にとのことなり、廿一日柏嶋沖より入り しを、柏島の役人見付船を乗懸尋しに、薩摩守の内本琉球の楷船なるよし答へ、其事の様をいひ、碇入るへき所なとを頼ミしにより、引船を出し大島の西大渡(オホトウ)島へ引き、廿二日大島の湊へ入れ碇を卸させしなり、此船ハ楷船とて琉球の用役上乗りし産物を積、薩摩の琉球仮屋といふへ荷を上け、薩摩への払方等にす、其役琉蔵役といふ、潮平親雲上則ち其役なり、親雲上ハ頭役とて、物頭の格なり、楷船とハ琉球の用船なり、本唐へ貢するを進貢(チンコン)といふ、其船を進貢船といふ、進貢船ハ矢倉を揚け狭間を明け、砲を置、弓鉄砲等を備ふ、是海賊の用心なり、進貢船は二三度程用ひたれハ、矢倉を除き狭間を塞き、楷船といふ名目に成、琉球国の官船とし、薩摩へ行通ふ船とす、春先楷船といふハ、春より乗る、夏立楷船といふハ、夏より乗るといふ名なり、船印木綿の四半紺地三巴の紋なり、是琉球国王の印なり、公私の荷物多くはねたれとも、此印ハ恙なく持つけ、礼日等にハ舳に飾れり、楷船薩摩へ通ふにハ、海賊の患もなく、其上薩摩よりの制禁もあるか故に、狭間を塞き武器の備なし、船中用心の為に刀壱腰を入る、尤改切手あり、九月廿五日首途の御祝とて、御料理遣ハされた る夜、彼是御懇意の至、此度の御恩恵御礼も申尽しかたしとて悦合り、程なく帰国す、
▼大島筆記、「○按するに、文中薩摩に到着の事、所見なけれとも、結文を見て其到着、かつ扶助等ありし事推て知るへし、」
▲安永四乙未年五月、志州島羽浦に琉球人漂着す、
▼近世東西略史、
▲文政二己卯年五月十三日、常州多珂の郡川尻村に漂着の琉球船、其由を尋候に、十三日雨中早天に、川尻村海面汀近く漕入船の繁り場、何にて可宜哉と仕形を以漁船に問候由、漁船大きに驚き、大略に磯間かゝり場指図いたし候由、夫より異国人弐人陸に上り、庄屋藤左衛門宅を尋ね候趣、日本言葉を遣ひ候由なり、時に七十五才に相成候老母有之候を見て、ナンチヤと申候由、庄屋の妻ヲヤと答候得は、いくつになると申候由、七十五になると申候へハ、我等もヲヤは八十五になると申て、涙を浮へ手を合て我を案し候事にも可有之と申仕形を致し候由、殊勝なる事に有之候、其後茶を出し候へハ、茶台へ式礼有て茶を飲候様子、此方の人に異る事なし、何そ給へ候やと申候へハ、不分様子に付、仕形にて見せ候得は、至極悦ひの様子見えけるにより、肴もなくてと申候へハ、シケヂヤカラと申候由、此弐人の中、壱人ハ船頭当銘と申ものにて、此ものばかり日本の詞を遣ひ候なり、右漂着の節漂流人より差出候訴状、
  覚、
私共乗船之義、中山王年貢米積越用八重山嶋江相渡り年貢積入、閏四月十六日彼島より出帆仕候処、次十七日逢大風、梶本木波ニ被打折、十死一生之涯ニ相成、大檣切捨、風謐当御地漂着仕申候間、御改被仰付可被下候、以上、
           琉球船主
             泉崎村渠筑登之船主
 卯五月十三日        当銘印
右印ハ、丸印にて此方の印に相違無之候、但し麁抹なり、
一夫より石神官府へ訴に相成、翌十四日未明に川尻に相詰候郡吏ハ、清水嘉右衛門、太田伝次右衛門、扨其夜郡奉行佐々木彦吉、并調役市村仁右衛門等拾人相詰る、則官議を以、右船頭并水主拾壱人川尻村公官の炭蔵明き居候を、屋根をふきかへ野埒(ヤライ)を結ひ、一方口に木戸を作り、諸役人番所まて一々同月十八日迄に出来、是へ為引置候也、扨又石神より詰の後、十五日に水府発足の人々、先鋒将荻登之助、横山甚五左衛門組の同心各弐拾人ツヽ、監曹川方佐左衛門史館より筆談として、大竹与兵衛、宇佐美久五郎、皆昼夜を不別、川尻へ相詰也、
一夫より船を汀に引寄、積入候俵物等を改、不残此方引揚候由、積入の品ハ、粟、小麦、玄米少々有之候由、
一異国船と申ハ、琉球国泉崎村仲村渠筑登之(キチクカン)と申者の船にて、船頭東村当銘(トウメイ)、とし四十三、水主ハ同村国吉(クニキチ)とし二十三、玉城(タマクスミ)とし三十五、大城(タイジャウ)とし三十五、比嘉(ヒカ)年三十七、島袋(トウタイ)年三十一、宮城(ミヤシロ)とし二十九、金城(キンシャウ)とし三十二、小橋川(コハガハ)とし三十一、山城(サンジャウ)とし三十三、高江州とし三十四、嘉数(ヨシカス)とし二十八、以上十二人、船ハ九反帆、馬艦と申船之由、清朝嘉慶二十四年卯四月十六日、八重山島といふ所より、出帆いたし候由之処、其翌十七日、大風にて辰巳の沖へ被吹流、夫より南風に吹替り、東北へ相走り、十二日より「按するに、廿二日の誤写なるへし、」北風にて此浜面に漂候由、其中彼地に於て、中山王大美殿と申殿の普請材木樫木数百本積入候よし、是又漂流の中不残海中へ投入、此度ハ唯送状はかりにて、所持の材木壱本も無之、右所持之送状十二通有之、皆同手跡同文言、唯小麦の数かハり候計りなり、其写、
   送状     御用意御蔵
 粟拾五石六斗七升五合六勺
   但、壱俵ニ付絃懸計飛入にして、弐盃小升、
    五升斤目八拾三斤、俵皮九斤、
右御用意為御物多配分を以、九反帆馬艦船主泉崎村仲村渠筑登之之船頭当銘、船より積登申候、運賃米は当所ニ而相渡申候、以上、
           仕上世役〓海目差
 卯四月十七日      譜久山にや印
             仲間与人印
右通相違無御座候、以上、
           八重山島頭
 卯四月十七日      石垣親雲上印
           同
             大浜親雲上印
           同在番筆者
             潮平之親雲上印
           同在番
             具志堅親雲上印                    右見届差登申候、
           同在番
 卯四月十七日      喜舎場親雲上印
       御物奉行所
 「按するに、八重山嶋出帆を四月十六日と記して、此送状に、十七日とあるハ、時日符合せす、姑く疑を存す、」
一人物皆柔和に相見候、髪ハ平生丈け長く蓄ふる由に候得共、此度漂流寒苦に因て、神明を祈り各髪をたち詰候由也、此方の山状のことくまとひ居候也、古来ハ丸に惣髪に有之処、明朝敗滅の後、今の清朝北狄の余胤を以、中華を猾し風俗を革め、皆鼠辮の姿に成候ニ付、琉球人をも是非に其風俗に改めんと命令に付、不得止事中を始てそり候由、今ハ中そりを加へ候なり、しかし惣髪相見え候、
一衣裳ハ、イセウと唱へ、皆からむしにて作り候由、至極の麁布なり、仕立ハゑりを広くして、一面に幅広に縫立候、帯ハ一はゞものを、よりなしに前にて両膝に結ひ下け、常に手拭の様なる物を腰に挾ミ居候なり、
一積入候諸品、金碇三ツ、木碇弐ツ、金碇ハ三ツ足に有之由、木碇ハ此方の方言に山太郎と申碇に少し替り、大概似寄候由丹後といふ手桶芭蕉縄二房、砂仁縄弐房、白米壱人壱石ツヽ、伝間船壱艘、味噌壷壱荷、菜櫃壱ツ船を引上候ほとりへ上置候、太縄廻り壱尺位にも見え、木の皮を以制し候様子、香気も少々有之間、もし是を砂仁縄とも申候哉、
一船長さ拾四五間、横四五間、深さ壱丈壱弐尺、清朝福建州の船に似寄候得共、削方制作至て麁抹にて、危様に相見え候、帆柱三ケ所中、壱ケ所作り附、居所舳にあり、竹をかき附、上に笘を張る様子、屋根中棟通り三尺程明き、赤き木を帆板(ホケ)にかけ、笘を其次にかけ、潮除の様子、舳に石灰ぬりに赤き丸あり、艫に黒板に白き半月の如き丸あり、水つぎ石灰塗り、敷板異なる事なし、ホケ左右に薬研の縁の如く開く、帆柱押の木に船板あり、観音の札なり、
船之図〈図アリ〉、
同年六月十日、薩州より右漂流人迎の役人川尻へ着、一昨八日江戸出立之由、
           馬廻り                             高三百石     四本孫左衛門
             上下六人
           留守居添役
   高百五拾石    河野新大夫
             上下五人
           目付役
   高百石      小田善兵衛
             上下弐人
             外ニ
              足軽三人
    〆人数拾六人
▼琉球人漂流聞見図説、「○按するに、江戸注進及ひ帰国の月日等をもらせり、」
 ○漂流、并異国人漂到、
●本邦の船、琉球に漂流の時ハ薩摩に送り、唐国及ひ朝鮮の船ハ、其本国に送れる御規定なり、「自余の異国船ハ、薩摩に送り、それより長崎に送れる例なるへし、長崎覚書に載る寛永十四年漂到の黒船にてしられたり、」
▲将軍家よりの御掟にて、本唐朝鮮の船ハ本々へ送り、日本の船ハ薩摩へ送る事なり、紅毛韃靼の船ハ、又外に御掟あるよしなり、
▼大嶋筆記、「○按するに、此書ハ、薩藩戸部良煕、宝暦十二年薩摩領大島に漂着せし琉球人潮平親雲上等に聞る所を筆記せしなり、」
●某年陸奥国の船、琉球運天港に漂流す、「大嶋筆記に、年代を記さす、こハ前に注せることく、宝暦十二年大嶋に漂着せし潮平親雲上より聞たるよしにて、潮平彼国に在りて、漂流人を扱ひし事見えたれハ、宝暦十二年前の事なるハ論なし、」安永三甲午年三月廿四日、また尾張の廻船漂流す、薩摩より在番の士二人出て、漂流の故を尋問し、扶養を加へ上陸を許さすして薩摩に送り、それより大坂に護送あり、後尾張殿より彼藩士二人に謝物を贈らる、
▲琉球運天の津へ、奥州船漂着し、潮平親雲上其用方にて参る、首里より二十四五里の所なり、奥州もの言語通しかたきのミならす、運天の者も、同し琉球人なれとも通しかたく、彼是不自由にありしよし語れり、
▼大島筆記、
▲尾州の商人に、大坂廻船を持しあり、「自注、長者町紙屋理兵衛か、船頭摂州大坂松本町政之助弐拾五歳、其外九人、」去る安永二癸巳年霜月十九日、米及ひ材木を積て、城西堀川より出船し、志州鳥羽へ着、「自注、十一月廿一日、」日和を見て、ともつなとき、紀州里の浦へかゝり、夫より大坂へ志て乗り行く、「自注、十一月二十八日、」明方より風いミしくして、いたつらに吹放され、浪にたゝよひし、同し港を出し船三四艘しハらくハみえしか、行ゑも知らすなりぬ、たゝたゝ九人乗りける船の者とも、消なんとする命つきせすして、百二十日はかり海上に日を送りし、其間風静りて、磁石針を以て考ふるに、日も月も大方北の方に見へぬ、扨ハかきりなき南海こそといとゝ心ほそく、念仏なんととなへ、せめてハ陸地あらん所へつきて、水をのミ死せは、うらミハ残らしと祈誓しける、かゝるに大きなる鳥鴈のことくにして、觜黄に羽ハ薄黒の色にして、つはさ大よそ一丈四五尺もありなんと見ゆるか、二羽来りて船にとまる、扨は島も近きにこそと、うき中にも嬉しく米あらひてあたへけれとも、是をはむけしきもなく、くれに飛去りあしたに又来る、其頃よりハ海中も静にあたゝかなる事暮春 のことし、とかく日をおくりし程に、西北の方に山はるかに見へ初たり、いそき乗りつかはやとおもへとも、帆は先にふきやぶれ、梶たへて力なし、されともさほなんどを以て、漸に漕行程に一地に至りつきぬ、人あれとも言語たしかに聞得す、やゝ琉球国なる事を聞て悦ひ、年時をとふに、甲午「按するに、即ち安永三年なり、」三月廿四日なる由云、船の漂流せしさまこまこまと聞て、日本国より居をく番所に告へしとて、食物を送りていたハれり、かくて薩摩侯の家人「自注、佐合太郎左衛門、田島市兵衛、」事の次第を間ひ聞、其後船中にさし置き、船のまはりに垣結ひて、陸にあかる事なかれ、毒虫「自注、はめといふ、」ありて、人をそこなふとてかたく制しける、日ことに飲食を送りておろそかならす養ひ侍りし、夏を過秋に至りぬ、七月十一日出船し、薩摩かた山川の湊に至りつきぬ、爰にて侯より命して船を修し、大坂におくり給ひし、
 九人の内一人ハ船中ニ而死す、薩摩にても船よりハあけさりしか、盂蘭盆の日を幸ひに、吏に告て寺院にまふて、船中にて死せし者の追福なとせしと云々、
 十一月尾州へ帰り来る、十二月廿八日、我公より「按するに、尾張殿なり、」薩摩の家人佐合氏等に時服二ツヽ賜りし、是ハ琉球にして漂船の者ともいたハり侍りし故となん聞えし、
▼塩尻、
●寛永十四丁丑年、琉球に南蛮船一艘漂到す、則薩摩に来たし、それより長崎に送り獄に置る、宝永三丙戌年九月二日、松平「嶋津」少将吉貴より、去月大島に漂着の阿蘭陀人諳尼利亜人を長崎に護送あり、享保二十乙卯年十月十一日、朝鮮船永良部島に漂到、其地出帆してまた大島に漂着せしか、明年元文元丙辰年三月三日、彼島より帰帆せしめし旨、同年六月廿八日、松平「島津」中将継豊か老臣より、長崎奉行細井因幡守に注進す、其後清朝の船も漂到す、「大島筆記に、二十二三年前とのミありて、其年代を記さす、前にいへることく、こハ宝暦十二年より算へしなれハ、元文五年寛保元年の間なるへし、」
▲寛永十四丁丑年、琉球ニ黒船壱艘漂着す、薩摩へ送り来、薩摩より長崎へ送来、則入篭被仰付候、
▼長崎覚書、
▲寛永十四年八月に、日本へ罷越し申候南蛮船壱艘琉球へ漂着す、薩摩番のもの捕之、さつまへ連越し候を、早速長崎へ送られける、伴天連六人日本人三人也、奉行馬場三郎左衛門榊原飛騨守詮義有之候処、日本に邪宗を弘むへきために、しのひて来るよし白状す、依之長崎の牢に入おかれ、落着不分明なり、此時九州中に出され候御奉書略之、
▼古集記、
▼長崎事始細見録、
宝永三丙戌年八月、琉球之内大島と申所へ異国人六人漂着、松平薩摩守殿より長崎江御送り、九月二日着船、奉行所にて御詮儀有之候処、三人はヱケレス、三人ハヲランダ人にて、疑敷儀無之、イスハンヤに被捕、彼国を逃去、アソント申所より漂流いたし候よし、
▼承寛襍録、
▲元文元丙辰年六月廿八日、松平大隅守老臣より長崎奉行細井因幡守へ注進、
一筆啓上仕候、琉球国之内永良部島江、去年十月十一日異国小船壱艘致漂着卸碇候付、早速役人共罷出見届候処、男十八人女十人、内弐人は幼稚者乗組、朝鮮人江似寄候故、漂着候次第出所等相尋候得共、言語文字相通不申候、然共朝鮮と申儀は相聞得、漁船遭逆風漂来之体ニ而、船具衣類之外積荷も無之、飯米払底候故食物を為取、宗門之儀相改候処、何も疑敷儀無之候ニ付、介抱申付、船具之内破損之品修補為相調、同月廿四日出帆、同日同国之内徳之島江致漂着候、於彼所も飯米野菜薪等相渡置候所、同十一月三日致出帆、同日同国之内大島江漂着卸碇候ニ付、早速出帆申付度候得共、右嶋よりは洋中難海順風も無之時節罷成候付、右之者共よりも日和見合出帆可仕と願候体相見得候故、為致滞船介抱申付置、船具并船修復用之品望候通相渡、当年三月三日彼島より直帰帆申付候、滞船之内番人等堅固付置、不依何色商売不申付旨、此節中山王より申越候、右之旨為可申上如此御座候、取附別紙差上申候、恐々謹言、
  六月廿八日      堀四郎大夫
                興昌判
             種子島弾正
                久基判
             島津木工
                久豪判
             島津主殿
                久貫判
    細井因幡守様
       参人々御中、
▼公事余筆、
▲本唐の船も、二十二三年前琉球に漂着す、其時唐船へ塗る石灰の仕来を見るに、琉国にて年来せし石灰よりハ、仕様かハり有て、弥船の為堅固になるよし、
▼大嶋筆記、

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