『遙かなる中世』12号は品切れなので、全文を掲載します。

 細川政元と修験道


 細川政元が修験道に凝っていたことは、「足利季世記」(1)巻二の巻首政元生害之事の冒頭部にあたるつぎの一節などによって夙に知られている。  このような軍記物の叙述にじゅうぶんな根拠があったことは、当時の公家日記などに散見する細川政元関連の記事を見れば明らかである。そして、そのなかで最も興味深いものは、「後慈眼院殿御記」(2)明応三年九月二十四日条に見える唐橋在数の談話であろう。  ここで気にかかるのは、政元に兵法を指導した司箭なる山伏のことである。右の記事からわかることは、明応三年に安芸国から上洛して来たということに過ぎない。

 ところが、この司箭なる山伏については、以後の諸記録中にも記事を見出すことができるのである。それによれば、こののちも政元に近侍しつづけていたことが知られる。実際にいくつか見てみよう。

 まずは、三条西実隆の歌集『再昌草』(3)永正元年三月五日条から。

 この件に関しては、『実隆公記』の同日条にも見えている。  両者を見比べれば、実隆が山城国内の家領について、司箭院を通じて政元に働きかけて訴訟の円滑化を図っていることが知られよう。つまり、司箭院は政元の申次を務めるごとき近習であった。また、興仙という名も確かめられる。

 『実隆公記』永正三年四月七日条にも記事がある。

 僧正になっていることがわかる。おそらくは政元の推挙によったものであろう。

 このほか、『和長卿記』(4)明応九年七月二十八日条も興味深い。この日、柳原から土御門あたりにまで及ぶ大火があり、公家・武家双方の邸宅や酒屋・土倉などが多数焼失した。東坊城和長は主たる被災者を列挙しているが、そのなかに「右京大夫被官人<司箭・宗益已下>」とある。興仙と赤沢宗益とは、地方から上洛して来て政元の近習として活躍していたという点が共通する。(5)被災者という限定があるにせよ、和長がこの両者を政元の被官人中第一にあげている点は示唆的であろう。

 宗益はもっぱら軍事活動にあたっており、宗教面で奉仕した興仙との相違は小さくないようにも思われるが、そんなこともない。というのは、興仙自身が軍事活動にあたったという所見はないにせよ、その子息が軍事活動にあたっているからである。『後法興院記』永正元年十月二日条を見てみよう。

 興仙の子息として源次郎なる者が見えている。前月、赤沢宗益は薬師寺元一に与同して政元に離反、元一の敗北後に没落した。すると、いままで宗益の圧迫を受けていた大和の国人が蜂起したので、その鎮圧のため細川政春以下の千余人が発向した。そして、それに先行して源次郎や波々伯部元教が五六百人を率いて出陣していたわけである。波々伯部元教は政元の近習波々伯部盛郷の子息であり、守護代級の有力内衆層の動向とは別個の政元独自の活動を支える存在であった。(6)つまり、源次郎も政元の「手兵」的な役割を担っていたのである。

 源次郎という名に注目すると気になる記事がある。「不問物語」(7)上巻・八・接州守護代事并元一謀叛之事によれば、薬師寺元一の反乱の当初において政元側が敗北を喫した際、香西元長・波多野元清そして宍戸源二郎が「猛勢ニテ向」って政元側の撤退を支援している。興仙子息源次郎の所見と時期的にもきわめて近接しており、政元側としての立場も一貫している。最初に見たように興仙は安芸国から上洛して来た。宍戸氏は同国の国人として著名である。とすれば、この宍戸源二郎こそ興仙の子息ではなかろうか、というわけである。

 そこで「宍戸系図」(8)を見てみると果たしてそのようであった。司箭院興仙、実は宍戸又四郎家俊である。家俊は文明十年から永正六年に至るまで同家の家督の位置にあった宍戸元家の子として見えており、つぎのような注記がある。

 家俊については、このほか『芸藩通志』(9)にも見えている。  家俊は剣術・薙刀つまりは兵法を嗜み、太郎坊つまり天狗の眷属と看做されるほどの愛宕の法の術者であったわけである。これは先の唐橋在数の談話とみごとに合致していると言わざるを得ない。司箭院興仙は間違えなく宍戸家俊であった。

 細川政元と愛宕信仰との関わりについてみれば、明応の政変後に政元の愛宕法楽和歌の興行があらわれてくることが指摘されている。(10)これは、興仙の上洛後と言い換えることができる。すなわち、政元の愛宕信仰は興仙によるところが大きかったのである。司箭院興仙こそ政元の魔法修行の師であった。

 ここで「宍戸系図」に戻りたい。家俊がいったん備中に居住していることが注目される。備中は細川氏庶流の分国であったが、この備中守護家と本宗たる京兆家とは延徳三年以降対立関係に陥っていた。興仙が上洛した明応三年に至っても抗争は継続しており、八月には京兆家被官人庄元資が安芸・石見等の国人を糾合して備中へ侵攻せんとしていた。(11)この時期的な符合を考えれば、興仙は上洛前から細川京兆家との関係を有していたと言うことができそうである。

 さらに、家俊の父は元家であるが、宍戸氏はおおむね家の字を通字としており、この元の字は何者かの偏諱を拝領したものと考えることができる。宍戸氏が毛利氏に服属するのは天文年間のことであり、元の字の由来を毛利氏にもとめることはできない。とすれば、この元の字は細川勝元の偏諱ではなかろうか。

 細川氏は明徳の乱後に短期間安芸国の守護職を保持したものの、その後は同国を分国としたことはない。(12)しかし、大内氏あるいは山名氏との対抗関係から同国の国人との関係には浅からぬものがあった。たとえば、毛利弘元は延徳三年庄元資に合力して備中へ出陣している。(13)また、奉公衆沼田小早川元平は文明末年の細川千句に参加しており、応仁・文明の乱以来の細川氏との関係の深さが窺える。(14)宍戸氏も応仁・文明の乱の前後から細川氏と密接な関係を保持していた可能性は小さくないわけである。果たして応仁・文明の乱において、一族宍戸駿河守こそ途中で西軍に転じたものの、元家の父興家は毛利弘元の父豊元と同じように東軍に属していたのである。(15)

 「宍戸系図」でもう一つ注目すべきことは、家俊の姉妹に「粟屋越中妻」の見えることである。粟屋越中守は若狭武田氏の重臣である。(16)武田氏は南北朝期には安芸守護を務め、(17)その後も安南・佐東・山県三郡を分郡として保持していた。(18)宍戸氏の本拠甲立荘は安芸の正守護山名氏の支配域に属する高田郡にあり、武田氏の分郡には含まれていない。しかし、宍戸氏が武田氏と結んだことは、宍戸氏と細川氏との関係を想起すればきわめて自然である。なぜなら、武田氏は山名・大内氏との対抗関係から細川氏と近しい関係にあり、応仁・文明の乱においても東軍の主力の一翼を担っていたからである。(19)つまり宍戸氏は、守護山名氏あるいは高田郡に接する東西条(賀茂郡・沼田郡)を領した大内氏の圧迫を逃れるため、安芸国人とのつながりを求めた武田・細川両氏に接近していったわけである。

 ここまで政元の魔法修行の師である司箭院興仙について見てきたが、その出自や上洛時期、さらには子息源次郎の活動をかんがみれば、政元が興仙を重用して修験道に入れ込んだことを単なる政元の個人的な嗜好としてのみ済ませるわけにはいくまい。明応八年前将軍足利義尹(義材)が大内氏を頼って周防に下ったのちは、いっそう安芸の国人との関係は重要になってくる。(20)政元と安芸の国人とを結ぶ紐帯として興仙への期待は決して小さくないのである。

 では、興仙の上洛前に政元が修験道に関心を寄せていなかったのかと言えば、決してそんなことはない。延徳三年の越後下向にははっきりと修験道の影が刻印されている。以下、この越後下向と修験道との関係を見ていこう。

 『蔭凉軒日録』延徳三年三月三日条によれば政元の越後下向の随員に「山伏大輔」なる者があった。(21)また、出発前には全員山伏の身粧で随従するとの風聞もあった。それとともに重視すべきことは、政元が奥州下向と称して出かけたことである。そして奥州とは、具体的にいえば南奥白川のことと知られる。なぜならば、越後国府逗留中に(22)つぎのような書状を白川結城氏の庶家小峯氏に宛てて送っているからである。

 奥州白川は、白川結城氏の先達職を有する八槻大善院を中心として、東北地方における聖護院系(本山派)修験組織の一大拠点をなしていた。(24)政元の越後下向から五年ほど前の文明十八年、聖護院道興は諸国巡錫に際して白川に滞在している。そして道興も北陸道を経て越後に下り、そののち関東を巡って奥州に下向した。(25)つまり政元の通ったルートは道興の辿った道と一致するのである。まさしく政元の奥州下向は「諸国巡礼」(26)でもあった。

 政元の越後下向の目的は、明応の政変の下工作として山内上杉氏と提携することが大なるものであったと思われる。(27)そして関東については、山内上杉氏の後援によって次期堀越公方に義澄の同母弟潤童子を擁立することを企図していたであろう。(28)とすれば、いったん奥州へ下向したのち伊豆へ赴き、東海道を経て京都に帰還するつもりだったのではなかろうか。近衛政家は政元の越後下向を「東国巡礼」(29)と呼んでおり、さらに出発前に「為富士一見可赴東国」(30)との風聞があったことがこの想定を裏付ける。

 ただし奥州および関東下向は実際には行われなかった。京都の将軍義材から帰還要請があったことが表面的な理由であるが、上杉房定の制止が決定的であった。(31)つまり、山内上杉氏(顕定は房定の実子)による全面的な協力が得られなかったのである。さらに、堀越公方政知が重態に陥っていたことも無関係ではなかろう。(32)

 しかしながら、以上述べてきたように、細川政元が重大な政治目的を有した越後下向にあたって、山伏を案内に立てて修験道のルートを利用しようとしたことは確かなのである。

 本稿では細川政元と修験道との関係について検証してみた。その結果、確かに政元は修験道に凝っていた。しかし、政元は修験道を単なる自らの趣味に終わらせてはいなかった。前稿で指摘したように、この時期の細川京兆家の動向は守護代級有力内衆によってのみ領導されるものではなく、政元独自の活動が存在していた。(33)そして政元の活動を支えるもののひとつに修験道があったのである。


〔註〕

(1)『改定史籍集覧』第十三冊、所収。

(2)『図書寮叢刊・九条家歴世記録』第二巻、所収。

(3)『図書寮蔵桂宮本叢書』第十一巻。

(4)史料編纂所架蔵謄写本。

(5)赤沢宗益については、森田恭二氏「細川政元政権と内衆赤沢朝経」(『ヒストリア』第八十四号、一九七九年)を参照。

(6)拙稿「細川氏の同族連合体制の解体と畿内領国化」(石井進氏編『中世の政治と法』吉川弘文館、一九九二年、所収)、一九七頁。

(7)和田英道氏「尊経閣文庫蔵『不問物語』翻刻」(『跡見学園女子大学紀要』第十六号、一九八三年)。「不問物語」は数多ある細川氏関係軍記のなかでも最も史料的価値の高い作品であると考えている。この点については別稿を期したい。

(8)『続群書類従』系図部、所収。

(9)『芸藩通志』巻六十七、高田郡・人物。この史料については、鴨川達夫氏の御教示を得た。

(10)米原正義氏「細川氏の文芸−管領家政元・高国、典厩家政国を中心として−」(『国学院雑誌』第八〇巻三号、一九七九年)。なお、司箭院興仙の宿所において歌会が催された所見としては、同氏「細川被官人の文芸−上原・四宮・薬師寺を中心として−」(『国史学』第一〇四号、一九七八年)所引の広島大学国文学研究室蔵「歌道秘伝書」明応四年六月二十日の条に「於司箭宿所」とあること、「為広詠草」(『私家集大成』第六巻・中世W、所収)永正元(あるいは二)年三月七日の条に「司箭院坊にて源政元なと出侍て当座有しに」と記されることなどがあげられる。

(11)前掲拙稿、一七七〜一八〇頁。

(12)佐藤進一氏著『室町幕府守護制度の研究』下巻(東京大学出版会、一九八八年)、安芸の項。

(13)前掲拙稿、一七九頁。

(14)「二月廿五日一日千句御発句御脇第三」文明十七年御前連衆、同十八年野州座第二の百韻の発句・御前連衆(鶴崎裕雄氏『戦国の権力と寄合の文芸』和泉書院、一九八八年、第三章第二節に翻刻)。

(15)文明二年十二月二十六日付細川勝元書状写(『毛利家文書』一、一三五号)。

(16)『蔭凉軒日録』延徳三年八月二十七日条。将軍義材による江州動座出陣の記事に「後陣武田伊豆守殿、先陣粟屋越中守、同一家衆、三十五騎有之」と見えている。

(17)前註(12)

(18)安芸国における守護職の分割については、今谷明氏「守護領国制下に於ける国郡支配について」(同氏著『室町幕府解体過程の研究』岩波書店、一九八五年、第一部第五章)を参照。

(19)松岡久人氏「大内氏の安芸国支配」(『広島大学文学部紀要』第二五巻一号、一九六五年)。

(20)この時期の安芸国については、河村昭一氏「明応期の武田氏と大内氏−年欠九月二十一日付武田元信感状の紹介を兼ねて−」(『芸備地方史研究』一四四号、一九八三年)に詳しい。ただし、氏は明応九年における若狭武田氏の動向について『大日本古文書』の誤りを踏襲し、誤った解釈をしている。(明応九年)三月十六日付武田元信書状写(『小早川家文書』二、二四七号)にもとづき武田元信が足利義尹方に属したとするが、これは誤読である。この書状の日付は、同内容かつ正文である六月十九日付毛利弘元宛書状(『毛利家文書』一、一六九号)の存在から六月十九日の誤写と見るべきである。『大乗院寺社雑事記』明応九年六月十二日条には細川政元と武田元信が祇園会に際して棧敷を設けた旨が見えており、元信は明らかに幕府方に属している。とすれば、『大日本古文書』や河村氏のように「右京大夫」を「左京大夫」の誤記と考える必要はない。この書状は義尹に同心せず、幕府に忠節を尽くすことを求めたものである。つまり、武田氏は一貫して幕府方つまりは親細川京兆家の立場にあった。これに対する義尹側の対応は、若狭に隣接する丹後国守護一色義直を自らの側に引き込むことであった。義尹に同行して周防に下った伊勢貞仍の歌集「下つふさ集」(『私家集大成』第六巻・中世W、所収)の詞書(一七〇、四〇五)によれば、明応九年五月に貞仍が義尹の使節として周防から丹後へ赴いたことがわかる。元信は永正三年に細川政元の協力を得て丹後に侵攻しており、一色氏が義尹側に属したことは間違いない。

(21)『蔭凉軒日録』延徳三年二月十一日条。

(22)政元の旅程については、小葉田淳氏「冷泉為広卿の越後下向」(『しくれてい』第十二・十三号、一九八五年)において概要が紹介されている同行者冷泉為広の日記によって知ることができる。

(23)「榊原結城文書」『白河市史』第五巻、資料編2古代・中世、五〇九頁。この書状については前註小葉田氏論文がすでに触れている。ただし、氏は『越佐史料』所収の「上杉家記」収載の写によっており、六月二十二日付になっている。

(24)白川結城氏と八槻修験との関係については、奥野中彦氏「白川結城氏と修験組織」(『地方史研究』一六五号、一九八〇年)、聖護院道興と八槻修験との関係については、新城美恵子氏「聖護院系教派修験道成立の過程」(『法政史学』三二号、一九八〇年)を参照。

(25)「廻国雑記」(『群書類従』紀行部、所収)。

(26)『後法興院記』延徳三年二月十三日条。

(27)百瀬今朝雄氏「応仁・文明の乱」(新版『岩波講座日本歴史』七・中世三、一九七六年、所収)、二一二頁。

(28)前掲拙稿、一九九頁。

(29)『後法興院記』延徳三年三月三日条。

(30)前註(21)

(31)上杉房定が政元の奥州下向を制止したことは、『後法興院記』 延徳三年四月二十八日条、および「不問物語」上巻・七・政元養子之事に見えている。政元が小峯氏に宛てて書状を送ったのが越後国府であった点も裏付けとなろう。

(32)『実隆公記』延徳三年五月二十八日条。前項およびこの点については、家永遵嗣氏の御教示を得た。

(33)前掲拙稿、一九三〜二〇一頁。


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