源 頼家


 小学校五年生時の鎌倉見学旅行レポートにこんな風に書いたことを、私は今でも良く覚えている。
「こうして平家は源義経の活躍によって滅亡した。しかし義経は鎌倉の源頼朝の操り人形であった。
そして後の歴史を見るならば、頼朝もまた、北条時政の操り人形にすぎなかったのかもしれない。」
引率の先生か、ガイドさんの受け売りに違いない。

 さて、ここでクイズです。北条時政といえば源頼朝の正妻、政子さんの父君としてあまりにも有名
だが、彼は婿である頼朝からどのような待遇を受けていただろうか?

1、御家人としては破格な官位を得る、公式行事の際には上席に座すな
  どの「栄誉」を与えられるとともに、幕府の政務に携わり、「実権」
  も付与された。
2、政子の父として「栄誉」は与えられたが、「実権」はなかった。政
  務は専ら将軍頼朝と大江広元ら京下官人が管掌していた。
3、武士の代表として「実権」をふるったが、身内を特別視しない頼朝
  の方針により、「栄誉」は与えられなかった。
4、頼朝の舅であるからそこそこには重んじられたが、格別な「栄誉」
  も「実権」も与えられなかった。

さあ、どれでしょう?ちなみに私の友人には「2」という人が多かったのだが・・。実は、史実に最
も近いのは、たぶん「4」である。

 鎌倉時代政治史の総体を知る私たちは「北条氏=執権=鎌倉の主」の図式に慣れ親しむ余り、幕府
草創期の北条氏の地位までを過大に評価してはいないだろうか。頼朝在世時の北条氏を注視してみる
と、予想とは裏腹に、時政はあまり活躍していない。幕府の重職に任じているではなく、朝廷の官位
を得ているでもない。ある時は、頼朝公は私をないがしろにしている、とふてくされて伊豆に帰って
しまう。まことにだらしがない。逼迫した時政は苦し紛れに頼朝の暗殺を企てたのでは、と考える学
者もいる。工藤祐経を討った曽我兄弟の究極の標的は頼朝だったと解釈し、兄弟の背後に、時政の存
在を見るのである。

 ところが、やがてこの「くすぶっていた」時政が、俄に水を得た魚のように活気づく。娘政子を最
大限に利用して幕閣の中枢に進出し、政敵を葬り去って抜き難い地歩を築きあげる。広元以下のこう
るさい吏僚たちも抱きこんで、「執権北条氏」の誕生へまっしぐら。それが二代将軍、源頼家の時期
である。このことをおさえ、それでは肝心の頼家に視点を変えて、叙述をすすめていくことにしよう。

頼家の登場(ここつまらない。読み飛ばしOK)

 正治元(1199)年、源頼朝は急逝し、十八歳の嫡男頼家が遺跡を継承した。武勇の誉れすでに
高い彼は、父の残してくれた幕府吏僚を率い、新たな武家の棟梁として振る舞うはずであった。とこ
ろが僅か三カ月後、頼家は訴訟の裁決権を奪われ、幕府宿老十三人が代わりにこれを行うことになっ
た。十三人の合議制と呼ばれる措置である。

 十八歳という年齢は、現代の私たちには若すぎるように見える。けれども名執権といわれた北条時
頼の執権就任が二十歳、蒙古襲来の激動に対処した時宗は頼家と同じく十八歳、得宗専制を現出した
貞時は十四歳。当時としては青年指導者は奇異な存在ではなかったし、頼家も十分な判断力を備えた
成人として認知されていた。だから十三人の合議制は、表面的な理由付けはどうあれ、頼家が若年で
あるが故に導入された制度ではなかった。

 ならば何故頼家は政治的な制約を受けねばならなかったのか。頼家は政治的能力に乏しかったのか。
いや、たった三カ月で行政能力の欠如が露呈するとは思えない。やはり原因は将軍独裁への、御家人
の鬱積した不満にこそ求めるべきだろう。源頼朝の晩年、御家人たちは将軍と異なるビジョンを思い
描くようになっていた。ただ、偉大な指導者であった頼朝の統治下にあって、彼らの意思は明瞭な形
を成さなかった。ところが頼朝なきあと、武士たちの意向を巧みに汲み上げ、将軍権力の掣肘を図っ
た者がいた。彼、もしくは彼ら、はおそらく十三人の中の誰かであろう。

 十三人の顔触れはというと、大江広元ら吏僚が四人、他は御家人の有力者で、三浦義澄・八田知家
・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時、それに北条時政・義時父子である。このう
ち、頼家の権力の後退を熱望した者は誰か。将軍権力を支える吏僚四人は該当しない。比企・梶原は
後述するように頼家腹心であるから、適当でない。残りの面々で、政治的な動きができる者といえば、
三浦、安達、それに北条父子であろうか。

 これ以後は確証のない推測になるが、私は十三人合議制の導入者は、やはり北条時政だと思う。頼
朝に押さえ込まれていた時政は、頼朝亡き後、有力御家人と語らい、将軍権力封じ込めに動き出した
のである。時も北条氏に味方し、翌年までに三浦・安達は病死するから、時政・義時父子の発言力は、
ますます強まっていく。

梶原景時の滅亡(ここは面白い)

 頼家が頼みとする御家人の筆頭は、「一の郎党」と評された梶原景時であった。景時は侍所別当、
頼朝の信任厚い文武兼備の異色の武士であった。十三人合議制の成立についで、頼家はこの股肱の臣
を失うことになる。

 合議制成立六カ月後、事件は起こる。頼朝追慕の情と頼家への不満をもらした結城朝光のもとに北
条時政の娘阿波局が来訪、梶原景時があなたの言葉尻をとらえて頼家に讒言したから、あなたは誅殺
されるであろう、と告げた。仰天した朝光は有力御家人仲間に相談、六十六名が連署する景時の弾劾
状を作成し、頼家に突き付けた。景時は一切陳弁せず、所領の相模国一宮に下向して謹慎。この行動
は御家人の支持を得たので、景時は再び鎌倉に戻り、政務への復帰を頼家に嘆願した。頼家の政治生
命は、まさにこのときが正念場であったろう。有力御家人とよくよく話し合い、景時復帰を成功させ
られれば、彼の未来はあるいは変わっていたかもしれない。ところが頼家はついに景時を救うことが
できなかった。失意の景時は上洛を企てるが、駿河国清見関に「たまたま」参集していた吉川氏以下
の同国御家人に襲撃され、族滅の憂き目にあう。

 景時は上洛して九州の軍兵を集め、武田有義を新将軍に奉じ、反幕活動を行うつもりであった、と
『吾妻鏡』は語る。だが、源義経の転落をつぶさに見ていた景時が、同じ轍を踏むとは到底思えない。
義経は同じく九州の武士に頼朝打倒を呼びかけ、全く相手にされずに奥州に落ち延びていったのだから。

 むしろ景時は朝廷に仕えようとしていたのではないか。彼は京都政界の第一人者、源通親や、名門
貴族である徳大寺家と縁故を有していた
。それらの縁を通じて、例えば北面の武士に列する選択は十
分にあり得た。時の治天の君は幕府嫌いの後鳥羽上皇であったから、景時の随身はたいへんに歓迎さ
れたろう。

 正治三(1201)年正月、越後の豪族城氏が反乱を起こした。源平の内乱時、城資職は平家政権
から越後守に任じられた程の大族であり、源氏に敵対して討伐された。囚われの城長茂(資職の弟、
もしくは改名した同一人か)を保護したのが景時
で、長茂は景時の助力を得て城氏の名誉を回復し、
御家人の列に加わっていた。やがて景時失脚の報に接するや、長茂は多年の恩に報いるべく上京し、
景時没落の因を為した結城朝光の兄の小山朝政を襲撃、後鳥羽上皇の御所に押し入って、頼家追討の
宣旨を得ようとした。一方、越後国では長茂の甥である資盛が蜂起し、かつての家人を招集して幕府
軍と戦った。

 城氏は京都でも越後でも目的を果たせず、長茂・資盛両人はやがて討たれたが、この事件は景時の
勢力の広範さを物語っている。もう一つ、この時に長茂与党として、本吉冠者高衡が討たれている
も見逃せない。高衡とは藤原秀衡の四男であり、この時点での奥州藤原氏の最も正統的な後継者であ
った。奥州藤原氏と越後城氏。かつて平家政権が反源氏勢力として最も頼りにしていた辺境の両者の
勢力は、ともに景時と深い関係を有していた
のである。

 北条氏は徐々に勢力を伸ばしつつある。北条氏に対抗できた人物の一人は、侍所別当として御家人
たちに影響力をもつ梶原景時であった。彼を失ったことが、頼家にとってどれほどの痛手だったのか、
以上の指摘で理解していただけたと思う。では、景時没落を策したのは一体だれだったのか?答えは
火を見るよりも明らかである。事件の発端となったのは、結城朝光と阿波局の談合であった。朝光の
兄の小山朝政は事件後に景時の播磨国守護職を得ているから、談合自体が観客を意識した芝居であっ
た可能性は極めて高い。そして阿波局の父は北条時政である。首謀者は時政以外に考えられないだろ
う。もう一つ。駿河国清見関といえば、有名な交通の要衝である。ここに同国の御家人が「たまたま」
参集している筈がない。彼らは指令を受けて、同所に景時一行を待ち伏せていたのである。そうした
指令を出せる人物といえば、駿河守護がまず想起されるが、それは北条時政その人だったのである。

比企能員の滅亡(まあまあ)

 「一の郎党」梶原景時なきあと、頼家を支える存在は、頼家の妻の家、比企氏以外にはあり得なか
った。ここで「吉見系図」に記された比企氏の血縁をまとめておこう<表1参照>。

 比企尼は頼朝の乳母の一人であったが、彼が伊豆国に流されると自らも所領武蔵国比企郷に下向、
この地から頼朝に欠かさず生活の資金を送った。頼朝にとって、尼は母に等しい存在だったのではな
いか。鎌倉の主となった頼朝は、尼を手厚く遇している。

 表1を見て注目すべき第一点は、頼朝の近親者がみな比企氏に連なっていることである。源範頼、
義経の正妻はともに比企尼の孫であるし、源氏の名門、平賀義信の正妻は尼の娘である。本稿の主人
公頼家の場合、母北条政子が彼を産んだのは鎌倉の比企氏の屋敷であり、尼の二女河越尼と三女平賀
氏室とが頼家の乳母に付けられた。頼家が成長すると尼の養子(甥といわれる)能員の娘が正室とさ
れ、二人の間には一幡丸が生まれた。

 注目すべき第二点は、この系図に反映される比企勢力の広がりである。比企氏・安達氏・河越氏
は武蔵国の武士であり、河越氏はとくに有力である。平賀義信は武蔵国の国司と守護を兼ねている。
上野の守護は比企氏、もしくは安達氏である。信濃国は平賀氏の本拠であり、比企氏が守護である。
武蔵・上野・信濃と、現在の信越線に沿った国々は、みな比企氏とその縁者の勢力が及んでいたこ
とになる。更に言うと、かつて北陸地方には、比企尼の実子である朝宗が勧農使(守護の前身とい
われる)として派遣されていた。後に若狭国は若狭氏・島津氏が、越前国は平賀氏・島津氏が、越
中・越後両国は朝宗の娘が産んだ名越朝時が守護に任じられる。当時の習慣では、守護が他氏に交
代する場合、以前の守護の縁者が新たな守護人になることが多かった。それゆえに、勧農使であっ
た朝宗は、そのままこれらの国の守護を務めていた可能性が高い。

 上野・信濃・北陸諸国、とくれば、何かを思い浮かべないだろうか?そう、源頼朝と覇を競った
源(木曽)義仲が疾駆した、京への経路である。義仲はこれらの国々の武士を束ねて平家を京から
追い落とし、やがて彼らの信任を失って滅亡した。比企氏は広大な義仲の勢力圏を、頼朝からその
まま委ねられていたと考えられるのである。

 比企氏は広範な地域を地盤にもち、源氏一門と血縁で結び付く。頼朝急逝の時点では、その勢威
は北条氏に勝ることはあっても決して劣らない。かかる比企氏と北条氏は、御家人首席の座をかけ
て、事ごとに火花を散らしたであろう。

 先の城氏の謀反の際、越後国と関係の深いはずの比企氏はついに動こうとしなかった。北条時政
らは当時上野国にいた佐々木盛綱を大将に起用、乱を鎮圧した。時政は比企能員を棚上げにするこ
とにより、手柄を立てさせまいとしたのだろうか。あるいは比企氏に協力を要請できぬ事情があっ
たとも考えられる。推測にすぎないが、たとえば城氏の背後に、実は比企氏があったとは考えられ
ないだろうか。

 安達氏、平賀氏の去就も微妙である。これも実証は難しいが、両氏はある時点で、北条与党に鞍
替えしたようにも見える。北条氏が代々安達氏を重んじたのは有名であるが、両家の絆はこの時に
わかに強まったのではないか。安達景盛の妾を頼家が奪った有名な挿話も、安達氏の方向転換に正
当性を与えるためのフィクションとして読み直すことができる。北条時政は後に娘婿である平賀朝
雅を将軍位に就けようとして失脚し、朝雅も討たれれるが、朝雅の父の義信は依然として重用され
た。北条氏と平賀氏との深い関係も、同じ視点から解釈が可能である。

 建仁三(1203)年七月、頼家は病に倒れた。八月、病は重くなり、家督譲渡のことが発表さ
れた。頼家の子の一幡には日本国総守護と東国二十八国の総地頭を、弟の千幡(実朝)には西国三
十八国の総地頭を、というのである。元来、すべては一幡が継ぐべきものであるから、比企能員は
強く反発。九月二日、頼家の病床に赴き、北条氏討伐の相談をした。ところがこの話を障子の陰の
政子が聞き、時政に通報。時政は先手をうって、能員を自宅に招いた。密事が漏れているのを知ら
ぬ能員は僅かな供と北条邸に出向き、その場であっさり刺殺されてしまう。間髪入れずに北条氏の
軍勢が比企邸を襲撃、比企氏は一幡もろとも全滅した。以上が『吾妻鏡』の説く、比企氏滅亡の顛
末である。

 しかしこの話には、解せない点が多すぎる。藤原定家の日記『明月記』によれば、九月七日、
幕府の使者が上洛、「頼家が没し、子の一幡は北条時政が討った。弟千幡を跡継ぎにするので、許
可してほしい」と言って来たという。頼家はむろんまだ生存している。また、通常の事例からすれ
ば、使者は一日か二日には鎌倉を立っている。つまり、時政はすでにこの時、頼家・一幡、比企能
員の殺害を予定していたのである。

 『小代文書』という史料によって、能員が単身・平服で時政邸にやって来たのは確認できる。こ
こで今一度考えてもらいたい。『吾妻鏡』の叙述する状況にあって、つまり家督相続が云々されて
いる緊迫した状況で、たとえ密事が漏れているのを知らなかったとしても、武人がこんな隙を見せ
るものだろうか。まるで殺して下さいと言わんばかりではないか。私には到底信じられない。

 能員が単身のこのこ時政邸にやって来る条件を考慮すれば、『吾妻鏡』の虚構は自ずと明らかに
なるのではなかろうか。思い切って言ってしまうと、家督相続の話自体が、実はあとからの創作
ったのではないか。頼家が重い病気になった。そこで時政は考える。好機到来。これを機に比企能
員を暗殺してしまおう。まともに戦えば勝てるかどうか分からないのだから。能員は暗殺、比企一
族は不意打ち。これしか確実に勝てる方法は無い。
そこで京都に先の使者を派遣し、法事といって
能員を呼ぶ。いつもと変わらぬ心積もりで名越の時政邸にやって来た能員は、訳も分からぬうちに
討たれてしまう。時政は時を同じくして、御家人の間に能員殺害を正当づける「家督相続云々」の
話を広める。そして比企一族を潰滅させる。それが事件の真相ではなかったか。

頼家の暗殺

 先に『明月記』の記事を引いたように、公式には頼家は既に死んだ人間であった。九月七日、頼
家は出家し、弟千幡が立てられて将軍実朝が誕生した。北条時政は政所の別当に就任し、いよいよ
執権として活動を開始する。

 頼家は北条氏の本拠、伊豆国修善寺に移され、翌年七月十八日に同地に没する。二十三歳であっ
た。『吾妻鏡』は死因について一言も語らない。『愚管抄』は入浴中に刺客に襲われ、激しく抵抗
した後に刺殺されたと記すが、おそらくそれが真実に近いのであろう。

 頼家はほとんど個性を示さぬままに歴史の舞台から消えていった。『吾妻鏡』は彼についていく
つかのエピソードを記す。だが、今まで述べてきたように、この時期の同書の記述は、特に吟味を
要するように私には感じられる。それゆえに、ただでさえ数少ないエピソードを深読みして、頼家
の性格を云々することは、とても危うい作業のように思えてならない。だいたい彼のような状況に
置かれたときに、人はどうすれば自らの運命を切り開いて行けるだろうか。少なくとも私には見つ
けられないだろうなあ。ずっしりと重い歴史の過酷さを思いながら、本稿を閉じることとしたい。