姉小路 顕朝
建暦2(1212)〜文永3(1266)・9・20
父は参議姉小路宗房、母は左京大夫藤原清長の娘。
父はなぜか一年で参議を辞して散位になってしまったが、彼の家は
代々権中納言に進む名門であった。
父の没後、暦仁元(1238)年に右少弁に。このころ九条道家に
仕えている。宝治2(1248)年に参議に列し、二年後には権中納言。
後嵯峨上皇に仕えて認められ、伝奏を務めるようになる。朝廷が
もっとも頭を痛めた山門関係の事件は、専ら顕朝が管掌したようで
ある。
正嘉2(1258)年、二条定高女との問に生まれた忠方を右少弁に
推すために権中納言を辞任。しかし後嵯峨上皇は顕朝を按察使に
任じ、以前と同様に厚く遇した。弘長2(1262)年、中納言に還任。
文永2(1265)年、権大紬言に進む。この地位は鎌倉時代中期の
実務公卿たちが等しく渇望しながら遂に昇り得たかったもので、
後嵯峨上皇がいかに顕朝を信任していたかが分かるだろう。翌年
病を得、職を辞し、出家して没す。
むろん権大紬言への昇進自体がたいへんな恩典なのだから、同職を
辞す時には子息等を挙任することはできなかった。顕朝は後嵯峨上皇の
第一の側近というべき人なのだが、この時期の記録があまりない
ので注目されてこなかった。彼の家が次代で絶え、家の文書も焼失
してしまったのが惜しまれる。