信濃源氏平賀氏・大内氏について

1、平治の乱

 源義家の弟新羅三郎義光の四男である盛義は、信濃国佐久平の平賀郷に本拠を置き、
平賀氏を名乗った。こうした場合、盛義の生母の出自を調べ、だれそれが信濃国司で
あったから、あるいはだれそれが佐久地方に勢威があったから、と盛義と平賀郷の結
び付きを説明するのが定番である。ところが残念ながら、盛義の母は調べがつかず、
この方法は使用できない。さりとて他の方法もにわかに見出せず、今のところ何ゆえ
盛義が平賀の地にやってきたのか、不明と言わざるを得ない。

 一つだけ考えられるのは甲斐国との関係で、盛義の父の義光は甲斐守の任じたこと
があり、兄の義清は同国市川荘に配流されて以後、逸見荘など甲斐国北西部に勢力を
扶植したという。同地域から野辺山高原を越えたところが信濃国佐久平であり、戦国
時代に信濃を併呑した武田氏が通った道でもあった。盛義は兄の勢力と連携しながら、
平賀郷に所領を形成していったのかもしれない。やがて盛義の弟の親義は岡田、子息
の安義は佐々毛(捧)・犬甘と、信濃国府、現松本市付近に進出していくが、このこ
とも、甲斐国から信濃国へ、という流れを想定しておけば、理解が容易ではなかろう
か。(図1、系図1参照)

 佐久地方は良質の馬を生産する地域として古くから知られており、平賀郷の近く望月
は「望月の駒」として和歌にも詠まれている。信濃の馬は陸奥に次ぐ全国第二位の名馬
として珍重されていた(1)ほどだから、馬とは切っても切れぬ生活を営む武士にとっ
て、平賀郷は名字の地にふさわしい土地だったと思われる。

 平賀郷の様子を語る史料は全く残されていないのだが、周辺の史料から、更に推測を重
ねてみよう。図1を見てほしい。平賀郷は伴野荘と大井荘に挟まれているのが見て取れる。
この伴野荘・大井荘は、ともに小笠原氏と縁の深い荘園なのである。

 甲斐源氏加賀美遠光は源頼朝の推挙によって信濃国司に任じ、彼の子で伴野荘を領有し
た小笠原長清の子孫は、周知のように信濃を代表する武士団を形成していく。長清の子時
長の一流が同荘を領有した伴野氏で、安達泰盛の有力与党として重きを為した(2)。ま
た時長の弟朝光の一流は大井荘を領し、大井氏を名乗っている(3)。

 伴野・大井両荘に含まれる地名を調べてみると、桜井・小宮山・三塚・野沢・高柳・大
沢(伴野)、土呂・平尾・安原・香坂・田口・湯原(大井)と、平賀周辺のものが多い。
また伴野荘は建武二年において(このときは大徳寺領であった)年貢高ほぼ八千貫(4)、
まさに桁違いの規模を誇っている。もう一つ、詳しくは後述するが、義光流の源氏である
小笠原長清は、同じ流れの大内(平賀)惟信の所職を引き継いでいる形跡がある。

 これらのことを勘案すると、次のように推論できないだろうか。平賀郷は馬産地として古
くから栄えていた佐久平に位置する、広博な所領であった。承久の乱で平賀氏が滅びると、
同地は小笠原氏に充行われ、伴野荘と大井荘に含み込まれていった。伴野荘が産み出す巨額
の年貢は、平賀郷の生産力の高さをも明示しているのである。

 盛義の子が鎌倉幕府に重きを為すことになる平賀義信である。彼は源義朝の「従子、平賀
四郎義宣」として『平治物語』に姿を現す(5)。子息頼朝、弟行家ら義朝の直の血縁者に
次いで記される「従子」には、義信の他に八島重成が名を連ね、彼らは他の郎党、たとえば
上総介広常や千葉介常胤とは区別される存在であった。

 八島重成は多田満仲の曾孫重実の嫡子。重実は鳥羽院四天王に数えられた「都の武士」で、
彼の子孫は山田氏・安食氏など、尾張源氏を形成した。ただし重実・重成父子の本拠は近江国
八島であったらしく、重成は近江守にも任官したという(6)。また重成は保元の乱にも従軍
しており、このときは七十騎ほどを率いていたと記されている(7)。

   義信、重成ともに義朝との血縁関係は認められない。従子とは、義朝に近い源氏一門を指す
呼称として用いられていると考えられる。足利でも武田でも佐竹でもなく、平賀氏と八島氏こ
そが義朝の側近くに仕えていたことに、注意を払うべきだろう。

 平治の乱に敗北した後、義朝は家来たちと別れ、東国を指して落ちて行く。一向の顔触れは義
朝、義平、朝長、頼朝、鎌田正清、金王丸、それに平賀義信と八島重成であった。このうち頼朝
がまず一行にはぐれ、美濃国青墓の宿で義平は北国に赴き朝長は自害した。宿の周囲が義朝に気
づいて騒ぎだすと、重成が義朝の身代わりとなって討たれた。時に二十九才であった(8)。

 四人となった一行は尾張国の長田忠致の屋敷に宿泊するが、周知のように義朝と正清は騙し討
たれる。義信は座敷でくつろいでいるところに悲報を聞き、金王丸とともに血路を開いて逃げ落
ちた(9)。なお古活字本の『平治物語』によれば、義信は重成の戦死後、信濃地方の源氏を糾
合する命を帯びて、長田屋敷に着く前に義朝と別れている。

 こうして義信は辛くも平治の乱を生き延びた。平賀郷に戻った義信にいかなる苦難が待ち受けて
いたのか、平氏全盛の世をどう過ごしていたのか、史料は何も語らない。先にふれた同門の小笠原
長清は平知盛に仕えていた(10)から、或いは義信も表向き平家に服従したのかもしれない。

 2、源平の内乱

 時は移り、全国の源氏が次々と立ち上がる治承・寿永の内乱が起こる。信濃源氏平賀氏にとって
差し当たり問題となったのは、源義仲との関係であったろう。1180(治承4)年、頼朝に僅か
に遅れて挙兵した義仲は先ず信濃国府に進出、父義賢の故地上州多胡に入り、再び信濃に戻って現
丸子町の依田を拠点とした。地理的に見ても、義仲が平賀氏と接触しなかった筈はない。この点で
1182(寿永1)年9月の横田河原の戦いは注目に値する。(図1参照)

 平氏の依頼を受けた越後の大豪族城氏は、義仲を滅ぼすために大軍を以て信濃に侵入した。義仲は
これを横田河原に迎え撃ち、激戦の末に勝利した。このときの義仲の軍の構成は、1木曽軍、2佐久
軍、3甲斐軍となっていた(11)。甲斐源氏は義仲と接触してないから3は上州軍の間違いだろう、
という指摘もあるが、今はふれない。1は明らかに義仲の本隊である。問題は2の佐久軍である。義
仲本隊と並称されるまとまりを有していたのだから、単に同地方の武士たち、というのではなく、平
賀義信を中心とする軍勢であったに違いない。平賀氏は義仲に協力し、城氏と戦火を交えたのだろう。

 横田河原での勝利は、義仲に北陸諸国への道、更には京への道を開示した。破竹の進撃を始める
義仲の軍勢には、諸国の源氏が次々に合流していった。ところが一方で、命運を懸けた戦いで義仲
を支えた平賀氏の姿は、これ以降義仲陣営に全く見られなくなる。推測になるが、義信は義仲の指
揮下に位置することを肯んぜず、一族を率いて鎌倉に向かい、源頼朝に臣従を誓ったのではないか。
父義朝に最後まで付き従った義信が、今またライバル義仲ではなく自分のもとに馳せ参じてくれた。
頼朝はたいへんに喜んだのではないか。そう考えなければ、後述する義信への信任が説明できない
のである。

 では義朝に供奉した八島氏はどうしたのだろうか(系図2参照)。重成死後のこの一門の指導者は、
系図が錯綜していて定かではない。その中で、重成の弟の重定(重貞とも)は平家に仕えた(12)。
彼はかつて源為朝を捕縛した(13)ために嫌われており、源氏の軍勢に回帰できなかったという。
重成の甥とおぼしき山田(葦敷とも)重隆は義仲に合力して厚遇され、父祖の由緒の官、佐渡守に
任官する(14)。泉(山田とも)重光(重満とも)は独自に行動し、墨俣川の戦いで敗死する
(15)。頼朝が彼らの動向を歓迎する筈もなく、重貞の子は誅された(16)というし、重隆
はのち常陸に配流(17)、重光の子で承久の乱に活躍する山田重忠は御家人にすらなっていな
いようである。平治の乱で轡を並べた八島氏と比較してみると、義朝の子頼朝に従った平賀氏の
行動は、単純に見えて、決して必然的な選択ではなかったことが分かるだろう。

 1184(元暦1)年3月、平賀義信の子惟義は、平氏の根拠地伊賀国の守護職に任じられた。
よく知られるように、このとき惟義は国司の如くにふるまっており(18)、強大な権限を同国
に有していた。彼は国府近くの摂関家領大内荘の地頭職をも保有したらしく、このころから大内
惟義と称されるようになる。惟義は5月には志田義広を(19)、7・8月には平信兼ら平氏与
党を討って(20)、頼朝の期待によく応えている。

 任国に強い指導力を有する、という点では、義信も同様であった。同年6月、義信は頼朝の推
挙を受けて武蔵守になり、武蔵守護(21)を兼ねた。武蔵国といえば鎌倉武士の一大根拠地で
ある。1185(文治1)年には代々「武蔵国惣検校職」を相承して同国武士の頂点にあった秩
父党の河越重頼が誅されるから、この地を統括する義信の役割はますます重くなったろう。同年
8月には伊賀で戦功を重ねた惟義が相模守となり、あたかも後の北条氏の如く、父子が両国国司
として相並んだ。

 平賀義信は源氏一門として、幕閣で特に重んじられた。それは行事での席次で判明する。彼の
上席に座す機会を有したのは、源三位頼政の子の頼兼のみであった(22)。頼朝の弟の範頼も、
足利氏も、むろん北条時政も、常に義信の下座に位置した。様々な場面において義信は源氏一門
の首座、つまりは御家人の首座に在った。1185年9月、義朝の遺骨が勝長寿院に葬られたが、
このときはたいへん象徴的で、義信と惟義、他に平治の乱で戦死した源義隆の子頼隆のみが頼朝
の供を許された(23)。平治の乱後の逃避行の苦難を共にし、義朝に最後まで従った義信は、
頼朝には特別な存在だったのであろう。

3、鎌倉幕府

 このころ、義信は比企の尼の三女を妻に迎えている(24)。この女性の前夫は伊東祐清、祐親
が頼朝殺害を企図したとき危急を知らせ、命を助けた人物である。のち頼朝は恩に報いようとする
が祐清は平家に従って北陸道に赴き、1183年に戦死した。そこで夫を亡くした比企氏を、頼朝
は義信に配したのである。

 比企氏は族滅したので詳細な史料が残らず、系譜も明らかでない。いま『吉見系図』にしるされ
た文をもとに系図を作成してみた(系図3)。これを見て改めて驚いたのだが、頼朝の近親者はみ
な比企氏に連なっている。範頼の妻は比企尼長女丹後内侍の娘、丹後内侍の夫は蛭ケ小島時代から
の近侍である安達盛長、義経の妻は二女河越尼の娘。比企能員の娘は頼家の室となり、一幡を生む。
こうした中に平賀義信も位置づけを得たのであり、河越尼と義信室とは頼家の乳母にもなった。

 系図を念頭において地理を見てみると、もう一つ興味深いことが見てとれる。上野国の守護は安
達氏、もしくは比企氏という。信濃国の守護は比企能員。北陸地方には守護の前身「勧農使」とし
て比企朝宗が派遣された。のち越前守護には島津氏が、加賀・能登・越中・越後守護には朝宗の娘
の子である名越朝時が任じられる。「闕所地給与の法則」からすると、当時の人々は、やはり朝宗
こそを北陸諸国の守護と認識していたのであろう。また若狭国守護は丹後内侍の子の若狭忠季であった。

 平宗盛の畿内総管職、義経・行家の九国・四国地頭職、梶原景時と土肥実平の中国地方5カ国の守
護職など、当時はあるまとまりをもった国々を一つに束ねて統轄する、という意識がもたれた。そこ
で上野・信濃・北陸諸国と列記すると、ここにも一つの共通項が見いだせはしまいか。そう、かつて
源義仲が席巻した国々である。頼朝は義仲の広大な勢力圏を、そのまま比企氏に委ねたのではないか。
そして比企氏の管国は、平賀義信が国司と守護を務める武蔵国、大内惟義が国司を務める相模国に連
なり、鎌倉へ至るのである。

 ただし血縁をいうならば、平賀氏は北条氏とも結び付きを有していた。義信と比企氏の子の朝雅と、
時政と牧の方の娘の婚姻である。御家人首座に位置し武蔵国を掌握する平賀氏の動向は、比企氏と北
条氏の政争に多大な影響を与えただろう、とは容易に想像がつくところである。

 源範頼・安田義定・山田重隆等々、源氏一門も数多く失脚して行く中で、平賀氏は一貫して抜群の
地位を保っていた。その理由の一つとして、平賀氏各人の有能さも挙げることができる。平賀義信は
武蔵国をよく治め、後の国司の模範とされた(25)。大内惟義は平信兼らの乱をよく鎮圧している
(26)。平賀朝雅は京都守護在任時、三日平氏の乱を平定した(27)。平氏勢に抗しきれずに逃
亡した伊勢・伊賀守護の山内首藤経俊は任を解かれ、朝雅が両国守護となった。彼らは過不足なく、
大任を果たしている。ちなみに朝雅は、武士としては破格の扱いであるが、伊賀国の知行国主になっ
ている(28)。国司でなく国主だから、まさに源氏将軍なみ、といえる。

 頼朝の死後、比企氏と北条氏の争いが激化するが、結果からすると、平賀氏は北条氏に与したよう
である。というのは、島津忠久・若狭忠季が連座して所領所職を没収されているのに、平賀氏と安達
氏は変わらぬ繁栄を保っているからである。安達氏が北条氏に近づく契機としては、頼家による安達
景盛妾略奪→頼家の安達氏討滅の企て→北条政子の諌止、という有名な一連の事件が想起される(2
9)。ただ、暴君としての頼家の行動がいかにも在り来りであるのと、時期が都合良すぎること、
後の北条氏と安達氏の緊密な関係から、この一件は『吾妻鏡』の創作ではないか、と勘ぐりたくな
る。一方、平賀氏には安達氏のような劇的なエピソードは伝えられていない。

 頼家将軍期、一つ気になるのは、大内惟義がしばしば在京するようになっていることである(30
)。平賀朝雅が京都守護に任命されたのは比企氏滅亡直後の1203(建仁3)年10月のことだか
ら、惟義の在京は朝雅の在京以前から見られるのであって、両者は直接には関係しない。あるいは惟
義は権力闘争が激しさを増す鎌倉を避け、事態の静観と保身を図ったのかもしれない。

4,承久の乱へ

 1205(元久2)年、それまで巧みに身を処してきた平賀氏に、痛恨の大事が起きる。北条時政
が失脚し、時政によって新将軍に擬された平賀朝雅が討たれたのである。これに前後して平賀義信は
波乱に満ちた生涯を閉じており(31)、信濃源氏平賀氏の命運は大内惟義に担われることになった。

 朝雅没後、幕府草創以来の武蔵国の国司・守護職は北条時房に与えられた。伊勢・伊賀守護職は
惟義のもとに留められた。彼は朝雅の罪に連座していないが、その立場には微妙な変化が見られる
ようになる。

 一つめは御家人としての席次である。従来大内惟義は平賀義信の跡を襲って、御家人首座、もし
くは第二席に着くのが通例であった。ところがこのころから、義時をはじめとする北条氏が、惟義
を超越する例が見られるようになる(32)。源氏一門といえども、北条氏の下位に立たざるを得
なくなっている。惟義は御家人の首座から降格させられたのである。

 二つめは後鳥羽上皇との関係である。私は先に惟義と後鳥羽上皇の軍事的な紐帯を指摘した(33
)。上皇は在京する機会の多かった惟義を側近の武士として登用、惟義は上皇の院宣を受けて南都北
嶺等の押さえとして、京都防衛のために働いていた。ことわりなく任官しただけで多くの御家人が頼
朝の逆鱗に触れた事件(34)を想起すると、ほとんど信じられない事象である。

 これに加えて幕府「守護」大内惟義も上皇の指令を受けて活動している徴証がある。1212
(建暦2)年7月、京都の惟義の使者が鎌倉に下り、惟義と日野資実のやりとりを伝えた(35)。
資実は「後鳥羽上皇が鴨川の堤の補修を幕府に依頼したところ、幕府は9カ国の守護に命じ、権門
勢家を論じずに課役を徴した。これは上皇の意図せざるところである。たとえば早速に修理職の杣
工らが愁申してきた。大嘗会卜合にあたる近江・丹波両国と権門寺社領を除いて堤役を課すように」
と惟義に伝えた。杣からの木材がなくては工事に差し支えると思ったのか、惟義が「修理職の分は
どこにかけましょうか」と尋ねると、上皇からは「太だもって言うに足らず、鎌倉に直に院宣を出
す」と言ってきた。かくて「近丹両国・権門勢家領を除き穏便の沙汰をするよう、惟義等に下知す
べし」という幕府宛の院宣が出され、惟義の使者が持参したというのである。

 この事件で注目すべきは二点。一点めは後鳥羽上皇と惟義の関係である。修理職杣工のことで
惟義が質問もしくは反論したからこそ「直の奉書」が幕府に出されたが、もし惟義が仰せのまま
に、と上皇の意向に従っていたら、この一件は幕府の与り知らぬうちに処理されていた。軍事の
みならずかかる公役の勤仕についても、幕府の守護たる惟義は、後鳥羽上皇の指令を受けて行動
しているのである。

 二点めは、惟義が朝廷の課役を負う9ケ国の守護たちの代表であることである。彼が単にいず
れかの国の守護としてこの件に関与しているのだとすれば、佐々木氏が守護職を帯びていること
が明らかな近江国の免除を、わざわざ彼に下知することはあり得ない。
 幕府→惟義→各国守護
という命令系統を想定してこそ、惟義の立場が理解できる。9ケ国それぞれの守護のもとへも
「此趣被仰諸国守護畢」と、上皇から権門勢家領除外する指示が下されているのも見逃せない。
彼らもまた上皇と直接に意志の疎通を図る御家人なのであり、惟義はこうした守護たちを代表す
る存在だったのである。

 惟義について注目すべき三つめは、膨大な守護職の集積である。先にこの問題に触れたとき、
私は彼が越前・美濃・伊勢・伊賀・丹波・摂津の6カ国の守護職を兼帯していると書いた(36)。
ところが最近、『尊卑分脈』の小笠原長清の項に「七ケ国管領」とあるのに気がついた。先述した
ように長清は加賀美遠光の子で、遠光は源氏一門のうちでも上席を与えられていた人物である。遠
光は信濃守に任じているし、長清は平賀郷に隣接する伴野庄を領している。大内惟義の本領信濃国
平賀郷との縁も深い。そうすると一つの仮説が成り立つのではないか。承久の乱で大内氏が京方に
ついた時点で、幕府は大内氏の守護職を剥奪、東山道大将であった源氏一門の小笠原長清を、戦時
の仮の措置として守護にしたのではないか。それが「七ケ国管領」の意味ではないか。この仮説が
妥当であれば、大内惟義が保有していた守護職は7つでなくてはならない。とすれば、田中稔氏が
言及されている(37)ように、残り1つの守護職は尾張であろうと思われる。越前・美濃・尾張。
東国と西国とを分かつ3ケ国を、惟義はすべて任国としていたのである。

 彼はなぜかくも多くの、しかも重要な国々を有していたのだろう。前稿で私は、後鳥羽上皇の関
与を想定した。越前・美濃・丹波各国が院分国であることも併せ考えると、その仮説を変更する必
要は今のところないように思う。比企能員・北条時政と関係深い大内惟義を、北条義時が快く思う
だろうか。先にみたように義時は、御家人首座としての惟義を否定している。義時が惟義を優遇す
る事由を見出すのは極めて困難である。

 これ以降の大内氏については、前稿に付け加えることはない。惟義は承久の乱前に病没し、子息
惟信は後鳥羽上皇方に与してすべてを失う。源氏随一の名門、信濃源氏平賀氏の歴史はここで幕を
閉じる。

 平賀氏が何らかのかたちで鎌倉幕府滅亡時まで命脈を保っていたら、御家人たちに棟梁として仰が
れたのは足利氏だったのだろうか?そうした疑問が歴史学と乖離していることは承知している。それ
でも、平賀氏の繁栄を跡付けてみると、ふと考えてしまうのもやむを得ないことではないだろうか。
平賀氏の軌跡はいくつもの問題点、たとえば武家の棟梁とは何か、源氏とは何か、鎌倉時代初期の政
治史のありようや「守護」の性格等々、を提起してくれる。これらを考察するのは今後の課題とし、
平賀氏の一応の紹介を果たしたことを以て、本稿を閉じることとしたい。

1『弘仁式』主税。
2 安達泰盛の母は伴野時長の娘である。伴野長泰は従兄弟の泰盛と運命を共にし、霜月騒動で討たれ
 ている。なお、小笠原氏の惣領は、この事件があるまで、小笠原氏ではなく、伴野氏であった。
3『一遍聖絵』は伴野・大井を旅する一遍を描く。とくに伴野の南、小田切は、踊念仏が始められた
  地として有名である。その意味については別に考えたい。
4「大徳寺文書 丙箱」建武2年10月21日、伴野庄年貢以下注文(大日本古文書「大徳寺文書」
  2−643)。
5『平治物語』上 源氏勢汰への事。
6『尊卑分脈』重成の項。
7『保元物語』上 官軍勢汰へ並びに主上三条殿に行幸の事。
8『平治物語』中 義朝奥波賀に落ち著く事。
9『平治物語』下 義朝内海下向の事付けたり忠致心替りの事。
10『吾妻鏡』治承4年10月19日条。
11『玉葉』養和元年7月1日条。
12『平家物語』巻第七、主上都落。
13『尊卑分脈』重貞の項。『兵範記』保元元年8月26日条。
14『吉記』寿永2年12月3日の条に佐渡守解官が記されているところから推測した。
15『吾妻鏡』養和元年3月10日条。
16『尊卑分脈』重貞の子、重満の項。『尊卑分脈』は重貞の子の重満と浦野重直の子の重満
  を同一人か、とする。ただ、先に記したように重成が戦死したのが29歳。また墨俣川で戦死
  した重満の子が有名な山田重忠だが、重忠の子の重継が承久の乱で戦死したときに31歳だっ
  たという。この二つを考えると、二人の「重満」が同一人物であるとは思えない。あるいは後
  者の「しげみつ」は『吾妻鏡』が表記するように「重光」が正しいのかもしれない。
17『吾妻鏡』建久元年8月13日条。『尊卑分脈』は重直の弟の重頼の子、重高を重隆と同
  一人か、とする。重高は重澄ともいったとあるが、『吾妻鏡』は重隆と重澄を別人として描い
  ている。これをどう整合的に位置づけるかも問題である。『尊卑分脈』は重澄の別名である重
  高と重隆が音が「しげたか」で共通するので同一人と勘違いし、同様の官途をも記載したが、
  重高はあくまで重隆とは別人である、と考えた方が良いのではないだろうか。
18東南院文書4の4、元暦元年8月9日、大内維義下文案(『平安遺文』4193)。
19『吾妻鏡』元暦元年5月15日条。
20『吾妻鏡』元暦元年7月5日条、8月2日条。
21『吾妻鏡』元暦元年6月20日条。
22たとえば『吾妻鏡』文治元年10月24日条。ただ、この頼兼は行事に参列することが大
  変少なかったようである。また『吾妻鏡』建久6年3月10条、東大寺供養の席では、惟義が
  頼兼の上座についている。
23『吾妻鏡』文治元年9月3日条。
24『吾妻鏡』建久4年6月1日条。
25『吾妻鏡』建久6年7月16日条。
26注20に同じ。
27『吾妻鏡』元久元年4月21日条、5月6日条。
28『明月記』元久元年3月21日条、4月13日条。
29『吾妻鏡』正治元年7月20日条、8月19日条。
30『吾妻鏡』正治2年1月24日条、同2年11月1日条、建仁3年6月24日条、同年7月
  25日条など。
31『吾妻鏡』承元元年2月20日条に「故武蔵守義信入道」とある。
32『吾妻鏡』建保元年8月26日条、同2年7月27日条など。
33本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』第2章(2)。
34『吾妻鏡』文治元年4月15日条。
35『吾妻鏡』建暦2年7月7日条。
36注33に同じ。
37田中稔氏「醍醐寺所蔵『諸尊道場観集』紙背文書」上・下(醍醐寺文化財研究所『研究紀要』
  6・7号)