山崎正和『室町記』−山崎史学の位相を探る−
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○京都中心の歴史観

 足利尊氏は政権の本拠を京都に置いて幕府を開き、ここに室町時代が始まる。将軍足利家の威勢ははなはだ頼りなく、三代将軍の義満の時期に早くも頭打ちになり、残りの十二代の将軍たちは「ただただ茫然と、急坂を転げ落ちる運命を眺めるために君臨していた(第1章)」。

 社会を拘束する力が微弱だったために、さまざまな階層の人々は自己の欲求を率直に主張する機会を得た。エゴと、権謀と、力の論理が剥き出しとなる一方で、多様な趣味がいっせいに開花していった。そのために世の中は乱れに乱れながら、かえって豊かな文化を生みだした。応仁の大乱をはさんで二百年に及ぶ乱世は芸能と趣味の時代であり、日本文化の伝統の半ば近くを創造したのだ。

 活力に富んだ室町文化の中核には、日本史上で初めて成立した「都市文化」である京都文化が位置を占めていた。室町幕府の拙劣な経済政策は、結果的に裕福な新興商人を育てあげた。彼らは京都の「町衆」=真の都会人となって、個性的な感覚を磨き上げ、祭礼や遊芸や美術工芸の保護者になった。

 地方で力を蓄えた有力な武士たちは京都に強い憧れをもって上京し、やがてその繁栄を自己の領地に移植していった。「小京都」が各地に林立した所以である。一芸に秀でて諸国をめぐる流浪の芸人たちも、町衆の庇護を受けて京都に滞在するうちに、新たな気風を摂取していった。再び諸国への旅路についた彼らは、芸能に京都の風情を乗せて、全国津々浦々で興行を催した。かくて都市文化たる京の文化は、日本全国に強烈な影響を与えていったのである。

 このように本書『室町記』は文化を媒体として時代を語り、文化の中心には京都を据える構造を有する。「京都」は畏敬と親愛の対象であり、全てはここから発想される。著者である山崎正和氏は京都に生まれ、京都に育ち、京都大学で学んだ生粋の京都人であった。その山崎氏が京都中心の歴史解釈を錬磨されたことは、奇異とするに足りない。親和の眼差しと分析の鋭さとが共鳴し合うような室町文化への深い洞察は、読み手をして感嘆させずにはおかない。千年の伝統が囲繞する京都という豊穣な場でこそ育まれ得た、感性と理性の希有にして見事な融和として捉えることができる。

 こうしたいわば「京都史観」は歴史研究の中ではどのように位置づけられるだろうか。日本の中世史を研究している私は、何よりもその点に興味を持った。山崎史学の位相を、歴史学の流れの中に探求してみよう。

○権門体制論

 太平洋戦争の敗戦によって悪名高い皇国史観が退場を余儀なくされると、実証的な研究方法が再評価され、さかんに用いられるようになる。鎌倉・室町・江戸、三つの幕府の動向に重きを置く政治史叙述が復活し、一層の進展を遂げた。天皇と朝廷が古代から保持していた権限や権益を、将軍と幕府がどのように吸収し、自らのものとしていったか。その過程を明らかにすることが、中世の国家について叙述することだと理解された。

 これに対し、とくに京都大学で学んだ研究者たちから、天皇と朝廷勢力の見直しを促す意見が提起されるようになっていく。彼らは天皇や朝廷の実態を解明しつつ、それもまた中世的な権力へと転化していること、中世国家を構成する極めて重要な存在であることを説いた。こうした研究の流れを踏まえていよいよ「権門体制論」が登場してくる。1960年代後半のことである。

 京都大学に学び、神戸大学・大阪大学の教壇に立った黒田俊雄氏は、むしろ天皇と朝廷こそが、中世日本の国家体制の中心に存在したと説いた。氏自身が書いた説明(『国史大辞典』。吉川弘文館)に依拠しながら平易に説明すると、権門体制論とは中世の日本のありようを指し示す概念である。「権門」と呼ばれた諸勢力が相互補完の関係を保ち、天皇と朝廷を中心とする国家体制を構築していたと想定している。

 権門とは政治・社会的に権勢を誇る門閥(世襲)勢力であり、具体的には王家(天皇家)、朝廷に参仕する公家(藤原氏など)、寺家(比叡山延暦寺や興福寺など)と社家(石清水八幡宮や賀茂社など)、それに幕府を運営する武家を指す。貴族と僧侶・神官と武士。彼らが天皇の下に結束して支配層を形成し、民衆を統治して日本の国を主導していたのだ。
 この論は、端的に表現すれば、京都重視の歴史観である。天皇が日本の王として位置づけられる。将軍と幕府は、あくまでも天皇と朝廷に従属する存在である。すべての権門を統合する天皇のもと、公家は主として行政を、寺家・社家は国家的な祭祀を、武家は軍事行動を受け持っていた。

 権門体制は三段階に区分できる。第一は成立期で、天皇の父や祖父である上皇が政治を行った院政期。第二は幕府と朝廷が並び立っていた鎌倉期。第三は衰退期で、『室町記』の室町時代がこれにあたる。室町幕府が他の権門を事実上従属させ、公武が癒着融合状態になっている。こののち戦国時代の動乱を経て、権門体制は江戸幕府による幕藩体制へと移行していく。

 権門体制論のキーワードは、右の説明で一目瞭然であるように「相互補完」である。それぞれが得意な権能を有する諸権門は、互いに協力し、補完しあう。これはたいへんに便利な概念で、権門が利益の配分を巡って衝突しても、ある権門が力を得て他の権門に優越しようとも、みな相互補完の一語を以て予定調和的に捉えられる。ところが、それは権門の相克のダイナミズムを努めて見ないようにする姿勢にもつながり、平板な歴史認識が羅列されることになりかねない。この点に注目して権門体制論を批判したのが、東京大学を拠点に戦後の中世史復興に尽力し、多くの優れた研究者を育てた佐藤進一氏であった。

○京都・関東、それぞれの磁場から

 1983年、佐藤氏は「東国国家論」を提唱した。中世「国家」は近代的な「国家」とは異質の存在であったことを前提としつつ、鎌倉幕府による東国経営を独自の国家行政として把握したのである。そのうえで幕府を、律令制国家の伝統を有する朝廷と対峙させた。天皇を戴く西の朝廷、将軍を奉じる東の幕府、という図式である。佐藤氏の言葉を引用すると、「幕府と王朝の関係は、相互依存から相互不干渉・自立へと変化する」。

 「相互依存」の語は権門体制論を意識して使用されている。黒田氏が「相互補完」と規定した公家と武家は、確かに当初は相互に依存するが、やがて互いに「自立し、干渉しなくなる」。故に黒田説は成立しがたい、と説く。佐藤説に拠るならば、中世前期には東国と西国、二つの国家があったことになろう。

 佐藤説には大きな問題点があった。それは「相互不干渉」である。隣接する二つの権力が相互に無関係である、などということはあり得ない。佐藤説は権門体制論の克服を急ぐあまり、現実離れしてしまった。こうした点を考慮して、最近になって提起されたのが、五味文彦氏による「二つの王権論」である。この歴史理論では佐藤氏のいう東国国家を東国の王権になぞらえ、朝廷を西国の王権に比定する。将軍を東の王、天皇を西の王と認識する。その上で二つの王権のありようを、実証的に明らかにしていこうとする。

 権門体制論に二つの王権論。現在の学界ではこの二つの見方が有力であって、当分は優劣が決しそうもない。前者が京都中心の歴史理論だとすれば、後者は関東中心のそれである。前者は天皇・朝廷・貴族・伝統・文化を重視し、後者は将軍・幕府・武士・清新・尚武を以て新しい時代を語ろうとする。京都こそ日本の中心であり続けた、と前者が説けば、いやいや鎌倉や平泉や地方への分権こそに注目すべし、と後者は力説する。

 興味深いことに、歴史解釈の分岐は学界状況をもあぶり出す。京都大学に学んだ研究者の多くは権門体制論を定説として受け入れている。東国国家論や二つの王権論を提示して対抗しようと試みるのは、東京大学周辺の「東の」研究者なのである。身贔屓が過ぎるようで少なからず当惑するが、自己の身体との関わりの中でこそ地に足が着いた議論が展開できるのだとすれば、きわめて正直で、健康的なありようなのかもしれない。とくに京都は、めまぐるしく変化する東京に比して、街のそこかしこに歴史と伝統が静かにいきづいている。そこに生活する研究者が深い影響を受けるのは、むしろ当然なのかも知れない。

○幽玄の構造

 さて、そうしたことを踏まえた上で、本書『室町記』を見直してみよう。この本が京都史観に与していることには贅言を要しない。驚くべきは、本書が権門体制論を易々と消化し、それを乗りこえる新たな達成をいち早く成し遂げていることであろう。黒田氏は権門体制論を念頭に置いた鎌倉時代史を1965年、『蒙古襲来』(中央公論社)として世に問うた。また1970年頃までに権門体制論の全容を明らかにした。だが、室町時代史についてはついに包括的な叙述を試みようとしなかった。

 先述したように、黒田氏は室町時代を体制の衰退期と定義し、幕府が他の権門を従えて公武が癒着融合状態になると説明する。だが、将軍の存在感が突出するのなら、天皇との関係はどうなるのか。幕府が室町に置かれ、名実ともに京都中心が実現したときに、中央と地方の関係はどうなるのか。誰もが疑問に思うそうしたさまざまな問題に、黒田氏が答えることはなかったように思う。

 黒田氏らの研究書に代わり、鮮やかに指針を示したのは、まさに1974年に上梓された本書であった。ここには京都に学ぶ武家の動向、京都を模倣する地方の様相が活写されている。京都と、外来の武家政権。京都と、勃興する地方。二つの二重構造が説得力をもって描き出されている。この意味で本書は、京都中心史観を体現する室町時代史論の出発点を形成している。広く人々に読んでいただきたい優れた著述である上に、学問的な脈絡に於いても、必読のテキストとして読み継がれるべきである。

 凄惨な戦闘技能にまさる鎌倉に比して、京都といえばやはり文化であった。洗練された文化が実は政治にも深く影響を与える、という視座は本書において幾度も語られ、深められる。なかでも山崎氏は「幽玄」に着目し、新たな、「アイロニカルな」解釈を与えていく。

 幽玄を端的に説明すれば、例えばわび茶の要諦を説いた、村田珠光の言葉となる。「月も雲間のなきはいやにて候」。もちろんそれは吉田兼好の「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」と共通のベクトルを有する情緒であり、それゆえに後世の本居宣長などからは、今が盛りと咲き誇る花、隈なき満月が美しく貴いに決まっているだろう。小賢しい「つくりごと」は本来の「美」には到底敵わない、と批判されることにもなる。どちらが正鵠を射ているかは、ひとまず措く。ともあれ山崎氏が説くところの幽玄とはそうしたものであって、それは二通りの性質を有している。

 一つは時間軸の構造であり、ここでは「むかし」と「いま」が対比される。煌々たる月は、欠けることのない平安時代の王朝の栄華である。「圧倒的」(第5章)の語で形容される在りし日の公家文化を憧憬を以て仰ぎ見つつ、一方で現代の衰亡してしまった天皇・や朝廷(あるいはそれと融合するに至った将軍と幕府)を対置する。この二重の、アイロニカルな構図が、幽玄と呼ばれる美意識を生む。

 もう一つは政治状況の構造であり、ここでは「権力」と「権威」が対比される。不平や不満の介在を許さずに、民衆をひれ伏させる居丈高な権力。室町時代にはそうした権力は存在しないし、作用しなかった。剥き出しの政治的欲求に伝統や文化を巧妙にかぶせて抽象化し、天皇や将軍は権威として振る舞う。それは単なる権力の弱体とは一線を画している。京都人の知恵が創出した仕掛けなのであって、ここにも二重で、アイロニカルな構図が見て取れる。そしてそのすがたこそが、幽玄なのである。

○能と茶の湯の美

 幽玄とは「渋くほの暗い」ことだと私たちは一応は理解している。だが室町文化を、いや日本文化の総体を代表する概念として顕現するとき、それは右で説明したような、より深く複雑な構造を私たちの眼前に示す。それを初めて「発見」し、ことばを用いて捕捉したのこそは、他ならぬ山崎氏であった。だがいったい氏は、どこで幽玄の、またそれと同様のベクトルを有する「わび・さび」の真の意味合いを見出したのだろうか。同時に、しっかりと掌中に収めたのだろうか。それはおそらく、氏のライフワークである世阿弥の能楽においてであった。

 世阿弥の時代にも盛んであった大和猿楽は、人の動きを丹念に模した。写実的に人間を演じたのである。この写実性は、運慶や快慶の彫像を想起すれば明解なように、鎌倉時代のメインテーマであった。仏師として傍流であった彼らは、新参の幕府勢力の庇護を獲得し、鎌倉武士の嗜好に影響を受けながら、新しい表現を開花させていった。伝統を有する貴族に比して文化的劣位にあった武士たちは、ありのままを凝視するところから文化を出発させた。というよりは、そうせざるを得なかったのである。抽象より写実、技巧より率直、静謐より躍動に注目する傾向は京都・奈良にも波及し、似絵が生まれ、力感あふれる軍記物語が成立し、豪快な大仏様(建築)が導入されるなど、一定の潮流を作り出していった。その延長に大和猿楽もあった。

 人の動きを忠実になぞる。それはそれでたいへんな表現力を必要とするのだが、それだけでは「花」ではない、と世阿弥は厳しく否定する。そこに舞いのヴェールをかぶせ、動作を抽象化してみせる。たとえば慟哭するときのこの上なく激しい身振りを、かかる静かな所作を以て表現する、というように。写実とヴェールの二重構造を創出する。しかもそれがごく自然な振る舞いであるごとく。それこそが世阿弥が説く「秘する」行為であり、「秘して」こそ「花」なのである。山崎氏はこの表現方法と構図に幽玄を見たのだ。

 能と並んで室町文化を代表するのが茶の湯である。「わび茶」に慣れた私たちは、茶の湯が室町初期には豪華絢爛たる遊芸であったと説明されると、少なからず驚いてしまう。だが、『喫茶往来』(室町初期に成立)に具体的に記される茶会の飾り付けは、唐絵・堆朱・堆紅などの「唐物」をふんだんに使い、様々な色彩にあふれた、派手できらびやかなものであった。
 海外から移入される唐物は高価な贅沢品であり、兼好のような伝統的文化人には「唐の物は薬の外はなくとも事欠くまじ」と斬り捨てられる。だが都鄙の日本人はこぞって唐物を愛好し、舶来品偏重を表す「唐物数寄」の風潮は、「バサラ」とともにこの時節を彩った。「バサラ」は現在ではサンスクリットの「バジラ(ダイアモンド)」の転訛と解釈されているようだが、身を華麗な服装で飾り立て、勝手気儘、常識はずれに振る舞う様子をいう。

 荘園略奪の先頭に立った高師直、光厳上皇に矢を射かけた土岐頼遠などを、バサラを体現するバサラ大名と呼ぶ。近江を領する佐々木道誉もその一人であって、彼は政敵である斯波高経の茶会にあわせてより盛大な茶会を催し、その面目を失墜させた。激怒した高経は直ちに道誉を襲撃するも、そうした事態を見越して十分に準備を整えていた佐々木勢の返り討ちに遭い、京都を追放される。社交がそのまま政治に繋がっていく好例として、山崎氏は取りあげている。

 興味深いのは、バサラを標榜していた道誉が、晩年にはきわめて洗練された趣味をもつに至ることである。世阿弥の良き助言者になり、生け花の成立にも関与し、さらには足利義満にも影響を与えた。唐物偏重の絢爛たる茶は獰猛な威圧感を伴っていて、デリケートな京都の知識人層はそれに鼻白み、程なく飽きてしまう。茶会が客を「もてなす」ことを主眼とする以上、慎ましく控えめな「わび茶」への変容は必然的で、道誉の変化、あるいは都会人としての成長もそこに淵源をもっていた。唐物とわび。茶の湯もまた、二つの価値を止揚して成立する幽玄の芸能だったのである。

○文化と政治

 山崎氏による、連歌の説明がまことに趣深い。連歌にあっては、発句が座の大まかな方向性を定める。参加者は前の句の意図をなぞるようにして、少しずつ自分の新視点を加えていく。唐突に雰囲気が転換することはあり得ず、人と人とが次第に心を通わせていく。この振る舞いが「社交」であり客の「もてなし」であり、連歌とは複数の感情が流露する接合点に生まれる営みであるという。

 こうした動きは文化のみならず、政治にも社会にも通底すると山崎氏は考える。はじめに京都に絢爛たる平安王朝があった。時代が移るにつれて、人々は大きな逸脱が生じぬように、工夫を加えながらそれを継承していく。文化においても政治においても、新参の者は絶えず古きと対峙し、古きに学び、古きを批判的にせよ取り入れながら自己を形成していく。だから京都は中央として、いつも為政者の意識に存在し続けた。新しい政治を創始するときには伝統文化の摂取が不可欠であり、この点で貴族は武士への優位を保ち続けた。武士の精神的・政治的な成長は、それゆえに貴族社会への接近として表現される。豊臣秀吉が関白になったり、武家典礼が整備されたり、より端的には天皇が現代にまで存続したのはその顕れであった。

 人と人との交わりのありようが各地方と中央との関係を規定し、新しい「地方」を作り出す。則ち、文化は政治と直結する。これが日本独自の特徴であって、世界の中での現代日本の特質にもなっている。この意味で「日本は室町時代に生まれた」のである。

 ただし、誤ってはなるまい。「世界にあまり例がない=一般化を拒否する」ことは、「しかるがゆえに日本は卓越している」ことに直結するものではけっしてない。希少性を根拠に短絡的に傲慢に振る舞えば、戦前の過ちを繰り返すことになる。現代に生きる私たちは室町時代に学ぶことによって日本の特性をよく認識し、アジアの人々、さらには世界の人々に分かり易く説明する義務を負っている。それが日本人として生きる、ということなのだろう。