書評 小谷野敦 『日本売春史』(新潮選書)           
                   史料編纂所准教授(日本中世史) 本郷和人
 わたしはこの書評において、「皆さんを代表してこの本を読みました」という形式を採らない。内容の紹介は省いて、
日本中世史の視点からこの本の特質を論じてみたい。中味の詳細は、どうかご一読の上、ご確認下さい。どなたにも
お勧めできる、それだけ素晴らしい本だと思っています。

 観察対象を突き放して凝視するのが研究者の営為であるが、中にはほれ込んでしまう人がいる。あまたある中から
自ら選択した解析の対象なのだから気持ちは痛いほどわかるのだが、たとえば日本中世史であれば、どう見ても粗暴
なだけの武士の野生を賞揚されたり、民庶を見下す傲慢な官女の優美さを謳いあげられると、読者としては思わず鼻
白んでしまう。高名な網野善彦は思えばそうした研究者の一人であり、中世社会を成員が生き生きと活動した輝かしい
共同体と解釈し、現代に対置してみせた。活力満ち溢れた彼は考究の場を近世へとひろげていき、そこにもわが国本
来の美点が遍在することを発見して高い評価を与えた。権力が栄枯盛衰する一方で、人々は固有の風土に則して倦ま
ず弛まず生きていくのだから、中世と近世に連続性を見出せることは当然かもしれない。ただし、この傾きを持続して延
伸していけば、日本人が否も応もなく懸命に生きてきた現代社会までを一貫して評価せざるを得ない。それはマルクス
主義の強い影響を受けている網野にとり、甚だ都合が宜しくない。「いま」は批判し、克服すべき対象なのだから。そう
すると、いったいいつ、愛すべき日本の共同体は「悪」に感染したのだろう。やむなく網野は近代の藩閥と軍部主導の時
期を、「善なるもの」を破壊した絶対悪として設定するのである。
 
 このようにして「とりあえず走りながら考える」網野は天皇に言及するに際しても、その制度を批判し克服すべく議論を
開始するのだが、いつしかかえって、そのしなやかでしたたかなありようを力説する羽目に陥ってしまう。おそらく彼はそ
んなことは全く望んでいなかったのだろうが。中世の天皇は定型の権力を保持しない。空虚で大きな器であって、何で
も取り込めるし、要請に応じて性格も変えられる。その変幻自在な性質ゆえに、かたちある権力を超越する権威として意
識され続ける。そう説かれれば一旦はなるほど、と納得しそうになるが、よく考えてみれば「権力はもたないが、権威とし
て存在する」という命題は内実を伴わぬ言葉の遊びであって、陳腐きわまりない。天皇の実像をより真摯に詰めていくこ
とこそ歴史研究に希求された課題であるはずなのに、網野の考察はそこで停止してしまう。もう一歩踏み込むための実証
作業には、従事しようとしないのだ。

 身分が秩序の源泉となり、個人の才覚では容易に越えられない壁として存在した中世には、厳しい差別を受けたり、
未開のまま放置されたマイノリティが種々に存在した。網野は現代社会を撃つための素材として好んでこれらを取りあげ
たが、そのとき往々にして彼が思念する「天皇」−それは空虚な、しかし権威ある存在であった−に直に繋ぎ結わえる
説明がなされた。「至上と最下」のダイレクトな交渉と親和。マイノリティは物質的なちからを持ち得ないので、その積極
的な歴史的評価を望めば方法はそれしかなかったのかもしれない。女性史研究者やマルクス主義者もしばしば用いる
さほど珍しくないやり方ではあるのだが、至上と最下の結合という物語を、彼はあらためて、中世史の分野で紡ぎ出して
みせたのである。業病に犯され歩行もままならない主人公が熊野権現の加護を得て日ノ本随一の若殿の姿に本復する
(説経節『小栗判官』)、もっとも惨めな境遇からもっとも羨まれる存在への飛躍的な転換。それは中世説話の代表的モ
チーフであり、これをなぞる網野の文章は多くの読み手を魅了した。もっとも、網野銀行を経営する富裕な一族出身の彼
が観念するマイノリティにいったいどれ程のリアリティがあるのか、わたしはいまなお疑念を抱かずにいられないのだが。

 マイノリティを代表する存在の一つが遊女である。中世において、天皇や上級貴族はしばしば芸能に長じた遊女を宴席
に招き入れ、遊興の時を過ごした。寵愛を得て枕席に侍り、やがて子をなす遊女もあった。当時は先述の如く身分が絶対
視されたにも拘わらず、その子が母の出自ゆえの差別を受けることはほとんどなかったようである。たしかにこれは注目
すべき史実ではある。だからといって、またいつものように、至上と最下の結びつき、と勇躍獅子吼するのはいかがなもの
か。遊女は元来が芸能を以て神に仕える「聖なるもの」であり、神性を帯びた天皇と官能を紐帯として融合する。「遊女の
聖性とその裏返しである卑賤視」。いかにももっともらしい解釈ととれるが、果たしてそれでいいのだろうか。

 市川市本八幡駅近く、高架下の駐輪場の片隅で、目に焼き付いた光景がある。中高年と覚しき路上生活者の男女が昼
の日中に、人目を気にする様子もなくもぞもぞと交わっていた。総武線電車が頭上を通過する轟音に包まれて、わたしは
唐突に宮本常一の「土佐源氏」(岩波文庫「忘れられた日本人」所収)を思い出した。学生の時分に益田勝実の授業で課
題となったが、生理的にとても受け付けなかった、博労による性遍歴の話である。

 おなかが減って他に手立てがなければ、そりゃあ体くらい売る人もいるでしょうよ。だって、泥棒の次に古い商売なんだか
ら。やはり中世史研究に従事しているわたしの妻は、面白くもないという顔つきでそう言った。性行為自体は素朴なもので、
欲望や快楽という要素を重視しても、食事や排泄や睡眠とたいした差違があるわけではなかろう。わたしたちは様々に装
飾を施し、本来は単純で乾いた振る舞いを人生でもっとも愉悦に満ちたものに変容させる。社会的な人間の行動としては、
それは否定さるべきものでは全くない。それこそがまさに「文化」なのだから。ただし、その過程で付着した情緒やら願望や
らを、学問的な文脈に無批判に取り込むのはどうだろう。一般の読者は喜ぶかも知れないが、それは冷静なアプローチで
はない。少なくともわたしは、再び生理的な嫌悪を覚えずにはいられない。もともと、美しい女性が氏なくして玉の輿に乗る
とは、古今東西の男性偏重社会にあまねく見られる事例ではないか。怪力乱神に頼らずに、研究者は真摯に事象に肉薄
していくべきである。

 網野と手を携えて中世史像を刷新していった研究者に石井進、勝俣鎮夫がいる。わたしは二人の授業に出席する機会に
恵まれたが、勝俣は「複数の史料解釈が可能な局面においては、よりおもしろい結論に至りそうなものを能動的に選択す
べし」と勧めた。石井はさらに積極的で「それを明らかに否定する史料が残存しない限りにおいて、いかなる歴史像を描い
ても構わないのだ」と教導した。卓越した教育者でもあった二人の真の目的は、小さくまとまりがちな学生への叱咤と激励
だったのかもしれない。けれども、ここに網野を加えてしばし考えてみると、歴史編纂を生業とし史料屋であることを本質と
するわたしには、どうしても、史実への畏怖の念が欠けているように思えてしまう。歴史事実の真相を過不足なく把握する
ことは同時代の人ですらできぬのだから、後代のわたしたちには所詮は不可能な作業である。けれども、それゆえにかえっ
て、ほんの僅かでもそれに迫ろうとする努力が重要になる。解釈自体と、解釈の上に成り立つであろう仮説とをひとまず切
り離し、科学的な態度で史実の復元に努める。恣意を排する自己抑制があるからこそ、研究は後進に継承され、より一層
の発展を遂げる可能性に邂逅し得る。

 網野らは自らを最前線に置き、できる限りのパフォーマンスを披露することで、読者の期待に応えようとする。それとは対
照的な方法で、『売春』の歴史をつとめて客観的に解明しようとする。それが(本当にお待たせしました)本書の著者である
小谷野敦である。

 網野の研究は歴史・考古・民俗学に君臨し、いまだ批判する者とてない。「遊女=聖なるもの」との皮相な理解は、遊女と
中世社会との連関の確認を等閑にしたまま記号化して流布し、様々な論者に便利に使用されている。小谷野はそうした状
況に敢然と懐疑を突きつける。「遊女は聖なるもの、などではけっしてなく、売春にロマンなどない」と。それとともに、網野の
業績に安易に寄りかかる多くの論者の虚構と問題点を抉り出していく。

 小谷野は日頃から「簡明に言うなら、ウソに立脚してはならない」と繰り返し説いている。その言葉を実行するために、彼
はきわめて厳密な方法を自らに課す。丹念に史実を洗い出し、統計を用いて史料と史料の行間を埋める。社会学に学んで
言説を的確に整理し、そこから浮かび上がる諸矛盾を手がかりとして、客観的に売春という行為を分析していくのだ。それ
は実証のダイナミズムを余すところなく示している。

 小谷野の文章はときに力強く、ときに鋭く読者に迫る。わたしは彼の本質は緻密な研究者だと理解しているが、その説くと
ころは豊かな文藻と相俟って、実に説得的である。それ故に本書は読み物として抜群に面白く、しかもすぐれた研究書となっ
ている。今後の売春や遊女の歴史的研究は、必ずやここから始まらねばならない。

 網野善彦の本格的な批判が、中世史からではなく、他の学問分野から生まれてきた。これはたいへんに示唆的である。
歴史学や民俗学に従事している研究者は、その大きな業績の前に立つと、みな途方に暮れ、力なく坐り込む。暫時の停滞
はやむを得まいが、終わってしまうわけにはいかない。いま、小谷野が確実に一太刀を浴びせた。歴史学の進展を目指して、
わたしたちも臆せず立ち上がり、続かねばならない。