ザビエルが伝えたキリスト教は戦国時代の日本社会に多大な影響を与えた。だがヴィレラ、フロイス、
ヴァリニャーノら宣教師に関する研究はあるのに、日本人信者の動向はさほど重視されない。私も恥ず
かしいことに、本書が言及する以下の人々の名すら知らなかった。元琵琶法師で説経の名手ロレンソ
了斎。日本初のヨーロッパ留学生トマス荒木。エルサレム巡礼を初めて果たし、帰国後殉教したペトロ
岐部。そして本書の主人公、不干斎ハビアン。
ハビアン(一五六二~一六二一)は浄土真宗が盛んな北陸に生まれ、若くして京都で禅宗の僧侶に
なった。だが程なくキリスト教に魅せられて改宗、大坂・臼杵・山口・長崎などのセミナリオやコレジオに
学び、めきめきと頭角を現した。頭脳明晰な彼は外部からの教学的攻撃を論破する役を担ったらしく、
そうした活動は『妙貞問答』(一六〇五年著)として結実した。この書物はキリスト教の優越がどこにあ
るかを説いており、信者獲得の教科書としても用いられた。
本書の筆者は浄土真宗僧、釈徹宗氏である。氏は『妙貞問答』を読み進めながら、当時それぞれの
宗教や宗派がどう認識されていたか、なぜキリスト教が広まったかを丁寧に解き明かす。その慎重な
作業は筆者自身の信仰のありようを再確認しているかのようだ。
日本の中世人にとって仏への信仰はごく当然のものであった、天照大神は大日如来の、八幡神は
阿弥陀如来の変化した姿である。かかる「本地垂迹」の思想を通じて日本古来の神々を包摂した仏は
いわば無敵であった。その仏を疑わせ、捨てさせるため、ハビアンとイエズス会は敢えてイエス・キリ
ストを後方に退け、「父なる神」デウスを押し立てた。釈迦も孔子も老子も天照大神も人の属性を有し
ている。これに対し、唯一神デウスは初めから絶対者であり創造主である。ゆえにキリスト教こそが
真実である。なるほどこの論法には一理ある。人々の胸に直截に、かつ衝撃を以て響いたであろう。
評者が驚いたのは、ハビアンがその後「転向」するという事実だ。彼は一人の修道女と失踪、数年の
後に長崎に現れ、キリシタン弾圧の陣営に身を投じた。死の前年の一六二〇年にはキリスト教を厳し
く指弾する『破提宇子』を著している。この書は『妙貞問答』の続編と解釈することが可能であって、そ
うして読み直すと内容は更に興味深いと著者は主張する。
ハビアンは誠に稀有な「疑う」人であったと評者は思う。自己の立脚点である信仰に疑問を投げかけ
て相対化し、他と比較し熟考した。自分は何を信じるべきか。その問いは素朴で、しかし本質的であった。
たとえば「デウスは万能というが、ならば何故日本人は今までその教えから遠ざけられていたか?」。
私たちが十分に理解できるレベルで、日常用いる言葉と論理を以て教えを子細に吟味する。その絶え
ざる真摯な自問自答の果てに、遂にはキリスト教までが否定されるに至る。
ハビアンは、本邦初の比較研究の学究でもあった。中世末の一庶民の思想は、既にここまでの深み
に達していたのか。評者は驚き、感嘆した。本書を先達としてハビアンの生涯を辿り、宗教について理
解を少しでも深めたい。
文藝春秋 2009年4月号