日蓮遺文に記された金沢北条氏の内訌
              坂 井 法 曄

写真 A文書:『鎌倉遺文』R267P(14492号)
写真 B文書:『鎌倉遺文』N189P(11452号)

 ここに掲げた日蓮遺文(写真参照)は、これまで別個の文書とされ、A文書は弘安四年(一二八一)、B文書は文永十年(一二七三)として『昭和定本日蓮聖人遺文』『鎌倉遺文』等に収められてきた。今回、両者は一通の書状(文永十年十一月三日付)の前半と後半であることが判明し、また、そのことによって同年の鎌倉幕府中枢にも関わる事件を発掘することができたので紹介したい。

 そもそもA文書は、山川智應氏が昭和十二年「新に發見せられたる史料としての御真蹟=『保暦間記』と『北條九代記』の記事中の眞訛確定せらる=」(『信人』第六巻第二号)において紹介したもので、サブタイトルに記す「『保暦間記』と『北條九代記』の記事」とは、佐介(北条)時光の流罪事件を指している。

 佐介時光流罪事件は、『保暦間記』等の掲げる弘安四年説、『鎌倉年代記(北条九代記)』の弘安七年説とがある。山川氏は、A文書に記される「抑越州嫡男并妻尼御事、不知是非、此御一門御事自謀叛之外異島流罪過分事歟」こそ、この事件であるとし、日蓮遺文に時光流罪に関する記載が見える以上、この事件は日蓮存生中の弘安五年十月以前であることは疑う余地はなく、『保暦間記』の弘安四年説が妥当であり、弘安七年とする『鎌倉年代記』の説はあり得ないとしたのである。

 この山川説は、『昭和定本日蓮聖人遺文』(昭和二十七年)に引き継がれ、以降A文書は、弘安四年の文書として扱われてきた。『鎌倉遺文』第十九巻(昭和五十九年)も『昭和定本日蓮聖人遺文』の脚注により、弘安四年の文書として収録し、『日蓮聖人遺文辞典・歴史篇』(昭和六十年)も、山川論文の要約をもってA文書の解題に換え(宮崎英修氏執筆)、最近では、筧雅博氏が『蒙古襲来と徳政令』(平成十二年)において、弘安四年の文書として用いている。

 しかし、冒頭述べたように、このたびA文書は、文永十年十一月三日付と確定しているB文書の前半部分である事がわかり、弘安四年とした所説は、白紙に戻さなければならなくなった。いまここにA・B文書を並列してみよう。

  九月九日鴈鳥、同十月二十七日飛来仕候了、抑越州嫡男并妻尼御事、不知是非、此御
  一門御事自謀反之外異島流罪過分事歟、ハタ又四条三郎左衛門尉殿便風、于今不参付
  之条、何事耶、定自三郎左衛門尉殿申旨候歟、伊与殿事、存外性情知者也、当時学問
  無隙

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  仕候也、非褒美実器量者也、来年正月大進阿闍梨与越中可遣去之、白小袖一給
  候了、  今年日本國一同飢渇之上、佐渡國七月七日已下、自天忽石灰虫と申虫雨下、一時稲穀
  損失了、其上疫々處々遍満、方々死難難脱歟、事々紙上難尽之、恐々謹言
   十一月三日                       日蓮(花押)
  土木殿御返事

 罫線がA・B文書の境界である。両者は文脈・書風(写真参照)ともに悉く一致しており、一連の文書であることは間違いない。A文書からB文書にかけて「智者」「器量者」といわれている「伊与殿」とは、富木常忍の義子で僧名を日頂といい、日蓮の佐渡流罪に際して従ってきた弟子である。そのことは、七月六日付(文永十年、推定)の富木氏充の日蓮書状に「伊与殿機量物にて候そ、今年留候了」(『鎌倉遺文』N一一三五八号)と記されていることから確認できる。B文書の「来年正月大進阿闍梨与越中可遣去之」とは、「今年留」めた日頂を、来年(文永十一年)正月に彼らとともに帰還させるとの意だろう。またB文書において佐渡の状況が語られていること、充所に富木氏を「土木」(文永十一年以降は「富木(城)」で「土木」の用例はない)と書いていること、さらに花押の形態からも、当文書は日蓮の佐渡配流期間の文永十年の書状であることは動かせない。したがってA文書の記述も文永十年のものとして再考しなければならないのである。これによって判明した事項は多々あるけれども、ここでは山川氏が佐介時光とその母に比定した「越州嫡男并妻尼」の流罪事件を取りあげたい。

 まずA文書が文永十年に確定した以上、ここに記された「越州嫡男并妻尼御事、不知是非、此御一門御事自謀反之外異島流罪過分事歟」も、文永十年の事件と考えなければならない。文永十年当時の「越州」(越後守)は、幕府最高幹部の一人、金沢(北条)実時である。よって「嫡男」は、実時の庶長子実村、「妻尼」は『関東往還記』に「越州旧妻」と記された人物と考えられる(関靖氏『金沢文庫の研究』参照)。

 しかるに『尊卑分脈』は、「実村」に「越後太郎、配流」と傍注している。この「配流」こそ、A文書にみえる「越州嫡男并妻尼」の「異島流罪」と考えられるのである。その時期は、富木常忍が書状を発した文永十年九月九日から、そう遠くは遡らないだろう。

 では実村とその母は、なぜ「異島流罪」とされたのだろうか。A文書に「御一門御事自謀反之外」とあり、謀叛によるものでないことは明らかである。

 この事件を語る史料が他に見えないので、推測の域を出ないが、文永十年五月二十七日、実時の岳父であり、実時の嫡子(実村の異母弟)引付衆顕時の外祖父である北条政村が没している。実時は、大きな後ろ盾を失ったのである。そして、その二年後の建治元年、実時が病を理由に公職を退いていることから、実時も当時、既に体調が思わしくなかったのではないか。詳細は不明ながら、この辺りの事情が、実村と顕時の嫡庶抗争、金沢北条氏の内訌を招き、結果、実村母子の「異島流罪」となったのではなかろうか。諸賢のご批判を仰ぎたい。

 ともあれ、日蓮遺文の錯簡を訂正したことにより、A文書ならびに、そこに記された金沢実村母子の流罪事件を文永十年に確定することができた。以上の他にも、この日蓮遺文をめぐって論じなければならない点は多々あるが、まずは、右の二点を報告し後稿を期したい。