信濃源氏大内氏について
A「やあ、久しぶり。会社、どう?」
B「いやあ、ご多分に漏れず不景気でね。身を粉にして働いてるよ。いいよなあ、親方日の丸は。
えーと、何とか研究所だっけか。」
A「史料編纂所。そうはいうけど、僕らは景気に関係なく低賃金だからなあ。」
B「労働時間が違うの、労働時間が。って不毛な争いをしていても仕方がないな。そういえば最近は
どんなことを考えてるんだ。またどうせ重箱の隅をつつくような話だろ。そんなこっちゃ、世間
様は相手にしてくれないぜ。」
A「それをいわれると耳が痛いな。そうだなあ、何かおもしろい話はっと・・。そうだ、大内氏って
知ってるかい?この大内氏がもしかしたら幕府を開いていたかもしれない、って話をしよう。」
B「歴史マニアをなめちゃいけない。大内っていえばあれだろ、山口の、ほら、戦国大名だろ。」
A「ああ、それも確かに大内氏だな。いや、僕がいってるのは鎌倉時代の大内氏さ。ええ と、
源氏の名を高めた八幡太郎義家の弟が新羅三郎義光で、彼の長男が常陸の佐竹氏に、三男が甲斐
の武田氏になるんだ。」
B「武田や佐竹は戦国大名として有名だな。」
A「そうそう。それで、義光の四男盛義が信濃の国の佐久に本拠を構えて平賀氏を名乗る。これが後
の大内氏さ。」
B「へえ、源氏の一門なのか。佐久というと、軽井沢や小諸の南だな。」
A「小諸から小海線で行くんだな、今だと。佐久市のちょっと南に平賀という地名がある。平賀氏は
佐久に勢力を張りながら、当時の国衙のあった松本市付近にも進出していたらしい。ま、そう詳
しいことはわかんないんだけどね。で、盛義の子が義信。彼は源義朝に仕えて いて、平治の乱で
は美濃の青墓の宿まで供をしている。」
B「たしか義朝は平治の乱で平清盛に敗れるんだよな。それで再起を図って東国に落ち延びる。
そんな義朝についていくんだから、ずいぶん親密だったんだな。」
A「僕もそう思う。義信は義朝の側近といってもいいような人物だったんじゃないかな。で、彼らは
青墓で別れるんだけど、その後すぐに義朝は尾張で殺害されてしまう。平賀義信は信濃に帰った
らしいけど、動静は分かっていない。平家全盛の時代じゃ、活躍しようがなかったんだろうね。」
B「義信が再び歴史に姿を現すのは、源平合戦を待たねばならないわけか。でも信濃の源氏、といえ
ば木曽義仲だろ。」
A「そうだね。義仲は頼朝よりわずかに遅れて挙兵するんだ。それで、これはあまり知られてないこ
となんだけど、彼ははじめ信濃から上野に出て、関東地方への進出を目論むんだ。でも関東には
すでに頼朝がいた。それでやがて北陸から京へ向かうんだ。」
B「あれ、信濃から上野に行こうとしたら、どうしても佐久を通るよな。義仲は当然、平賀義信と接
触するよな。二人はどういう関係になったのかな。義信は義仲の指揮下に入ったのか?」
A「うん、そこがポイントだね。上野から信濃に帰った義仲は今の丸子町にいたんだ。丸子といえば
上田の南、小諸の西に位置していて、佐久はすぐ近く。二人が無関係だった はずはない。やがて
平家の指令を受けた越後の大豪族城氏が義仲に襲いかかり、義仲はこれをうち破って北陸地方へ
進出していく。これが横田河原の合戦と呼ばれる戦いなん だけど、京都の貴族の日記によると、
このとき義仲の軍は1木曽軍、2佐久軍、3甲斐軍の三つで構成されていたというんだ。甲斐は
へんだ、上野の間違いだろうという研究者もいるが、1と2は問題ない。1は義仲のいわば親衛
隊だろ。とすれば2は」
B「そうか、それが義信を中心とする信濃源氏の軍だな。」
A「うん。そう考えていいんだと思う。」
B「じゃあ、義信はやっぱり義仲に従っていたのか。」
A「いやあ、それがそう簡単じゃなくてさ。やがて平家を追い落として京都を占拠する義仲の軍勢は、
実は様々な勢力の寄り合い所帯だったらしいんだ。義仲がやって来る前から平家に反抗してい
た北陸地方の武士たち、朝廷とも縁が深い美濃・尾張源氏、近畿地方の源氏。足利家の長男の矢
田義清(細川氏の祖)や頼朝と仲違いした源行家なんてのもいる。」
B「ははあ、そんな構成だから、義仲が後白河上皇に政治的に追いつめられると、軍勢が雲散霧消し
ちまったのか。たしか最後まで義仲と戦ったのは、ごくわずかだったよな。」
A「そうそう。その通り。でもね、そうした人々の中に義信の名前はないんだよ。それで、ここから
は推量になってしまうんだけど、僕はこう考えている。義信ははじめ義仲に協力した。だけど彼
が北陸地方に進む際に袂を分かって、鎌倉の頼朝のもとに赴いたんじゃないか、ってね。頼朝の
方はといえば、父親の義朝に最後まで仕えてくれた義信が来てくれた、しかも義仲よりも自分を
選んでくれた、というので厚く彼を遇したんじゃないか。そう考えると、その後の平賀氏の繁栄
ぶりが納得できるんだ。」
B「ほう、頼朝は義信を大切にするのか。」
A「それがすごいんだ。ほとんど御家人の筆頭といってもいいくらいだよ。御家人が一堂に会する席
では必ず上席を与えられているし、頼朝の推挙を得て、武蔵国の国司にもなっている。」
B「やっぱり源氏、しかも名門だから、厚遇されたんじゃないのか。」
A「いや、頼朝に反抗して討伐された佐竹氏、服従が遅れた新田氏、それに信頼を得られずに弾圧さ
れた武田氏なんかとは比べものにならない。同様に重んじられているのは、唯一、足利氏だけだ。」
B「それって、あの足利か?」
A「そう、室町幕府を開く足利。調べてみると足利義康という人も義朝と接点が多い人なんだ。保元
の乱では義朝と義康は轡を並べて戦っている。ちなみに義朝が率いてたのは 二百騎、義康が百騎、
平清盛が三百騎。まあ、この時代の武士団なんてこんな規模だろう。それから、義朝も義康も、
正室を熱田神宮の神官家から娶っている。生まれた子供 が頼朝と、頼朝に重く用いられた足利
義兼なんだ。」
B「なるほどなあ。」
A「さあ、ここからいよいよ大内氏がでてくるよ。平賀義信の長男が惟義。彼は伊賀国の守護職を与
えられる。」
B「伊賀といえば伊勢と並んで平家の根拠地だったよな。そこを任されるんだから信頼されてたんだ
ろうな。」
A「惟義は同国に潜伏していた志田義広(頼朝に対抗した叔父)、平家残党の平信兼といった大物を
討って、みごとに重責を果たしている。伊賀の国衙は伊賀上野にあって、その南に貴族九条家の
大内庄があった。惟義はどうやらそこに根拠を築き、大内惟義を名乗ったらしい。」
B「やっと大内の話になったわけか。だけど、有力な御家人、というと、まずは頼朝の正室政子の実
家、北条氏だろう?」
A 「あわてない、あわてない。むろん北条氏なんだけど、北条氏も平賀氏を重くみて、縁戚関係を結
んでいる。北条時政の後妻になった女性で牧の方という人がいる。今までは静岡県の大 岡荘の領
主の娘、と考えられていた彼女なんだけど、最近、池の禅尼の姪に当たるらしいことが判明した。」
B「池の禅尼というと、平清盛の義母で、首を切られようとした子供の時の頼朝を助けてくれた人だ
よなあ。その姪なら、貴族の出なのか?」
A「下級貴族だったらしいけど、上皇なんかに仕えてなかなか羽振りがよかった家みたいだよ。頼朝
が朝廷から注目されるようになると、当然舅の北条時政の存在も重くなってくる。それで、牧の
方が北条家にやってくるのじゃないかな。で、時政と彼女の間には 何人か子供ができるんだけ
ど、そのうちの一人の娘が平賀義信の子、大内惟義の弟、平賀朝雅に嫁いだんだ。」
B「弟の方が平賀を名乗るのか。北条の娘をもらったから、弟の方が家の跡取りになったのかな。」
A「それは十分にあり得るね。もともと頼朝に信頼された源氏の名門、その跡取りが北条時政の婿に
なったわけだから、そりゃあたいへんさ。朝雅は父の義信と同様に武蔵守に任官し、伊勢・伊賀
両国の守護を兼ね、やがて京都守護に抜擢される。これは京都に駐留する御家人を統括す
る、大変な重職なんだ。後の六波羅探題とおもえばいいかな。ただね、うまいことばかりは続か
ないわけで、朝雅の義理の舅時政と、北条政子・義時が政治的に対立しちゃった。」
B「原因は?」
A「まだよく分かっていない。深刻な政治路線の対立なのか、単にたとえば牧の方と政子がうまく
いかなかった、等々の人間くさい理由なのかもね。ともかく北条家内部で対立があって、当時の
将軍源実朝は政子・義時側ががっちり押さえていた。それで時政・牧の方はどうしたかというと、
平賀朝雅を将軍にしようと目論んだんだ。」
B「あの時期、頼朝の子孫には適任者はいないよな。それにしても朝雅を将軍に、か。平賀氏はおまえ
のいうとおり、かなりのものだったんだな。」
A「少しは今までの話、納得してくれたかな?しかし、この計画は政子・義時の知るところとなり、
時政は伊豆に幽閉され、朝雅は京都で殺害されてしまうんだ。」
B「あらら。それで平賀氏の繁栄も終わりか。」
A「いや、まだまだ。朝雅の父の義信は幕府でなおも重んじられていたし、ここから、朝雅の兄、
大内惟義の動きが活発になる。惟義は御家人でありながら、京都に住み、後鳥羽上皇のそば近く
に仕えるようになるんだ。上皇は惟義を信任し、彼は上皇の近臣とも 親しく交わっている。」
B「北条義時が運営する幕府に見切りをつけたわけだな。」
A「それがねえ。実はどうにも分からないことがある。この時期、惟義は六カ国もの守護を兼任して
いたんだ。伊勢・伊賀・越前、美濃、丹波、摂津。京都に近い重要な国ばかりだろう。これがど
うにも理解できないのさ。」
B「北条義時といやあ、政敵を次々に葬っていった冷徹な辣腕家だよな。そんなやつが将軍にも
なろうか、って家の人間を警戒しないはずがない。そのうえ、惟義は弟を義時に殺されているん
だもんな。たしかに惟義が厚遇されているのはわからんなあ。」
A「だろう?それで僕は、半分苦し紛れなんだけど、後鳥羽上皇を介在させて説を立ててみたんだ。
惟義に重要な六カ国もの守護を兼ねさせるようにし向けたのは、後鳥羽上皇だったんじゃ
ないか。上皇が強く推薦したので、幕府はしぶしぶ惟義に守護の職を与えたんじゃないか、ってね。」
B「なるほど、それなら、納得できるかな・・。いやいや待てよ、じゃあ、なんだって後鳥羽上皇は、
惟義にそこまでしてやったんだ?」
A「ズバリ、対幕府線の準備さ。後鳥羽上皇は自分で藤原秀康という武士を育てた。かれは一昔前の
源氏や平氏の惣領のように、全国の受領を歴任していった。上皇は、彼を新 い武士の棟梁に
仕立てたかったんだろうね。さてそれで、全国の武士を動員して幕府と戦うとなると、何カ国も
の国司になった武士も必要だが、何カ国もの守護を兼ねる武士も欲しい。上皇がそう考えたとき、
惟義は適任だったんじゃないかな。」
B「朝廷を代表する二人の司令官、ってわけか。」
A「うん。しかも惟義の妻は秀康の父秀宗の姉妹、つまり、二人は義理の叔父と甥になるんだ。」
B「へえ、なるほどね。で、後鳥羽上皇が幕府と戦ったのを承久の乱っていうんだよな、たしか。
そのとき惟義はどうしたの?」
A「いやあ、これだけひっぱっといてなんだけど・・。惟義は乱の前年に病没しちゃったんだ。
何とも尻切れで面目ない。惟義に代わって子の惟信が後鳥羽上皇のもとに馳せ参じて幕府と戦う
んだけど、朝廷軍は壊滅、知っての通り、上皇は隠岐島に流された。秀康は潜伏していたところ
を捕縛されて斬首、惟信の消息は不明。戦死したか、斬首されたか、というところだろうなあ。
結局、これを以て大内氏は滅亡してしまった。」
B「おまえの話もやっと終わりか。それで、どうして、大内氏が幕府を開くんだ?」
A「分からないかなあ。平賀氏は足利氏と同格かそれ以上だったといったろ。足利氏なんて、
守護職を二つしかもってなかったんだぜ。もしも平賀氏が、また大内氏が何とか鎌倉時代を生き
延びられたら、御家人たちの信望は足利氏じゃなく、大内氏に集まったこと、間違いなしだね。
そうなれば幕府を開いたのは、足利氏じゃなく、大内氏だったはずさ。」
B「何だ、結局タラレバの話か。一応でも歴史学者を名乗るやつの話とは思えんな。」
A「これは単純なタラレバじゃないって。将軍とは何か、武家の棟梁とは何か、幕府とは何か、
等々の重要な課題につながる話でだなあ・・」
B「はいはい。わかったわかった。ご高説は論文にでもしてくれよ。気が向いたら読むからさ。さあ、
この辺でお開きにして、遊びにいくとするかあ。」
◎参考 比企氏の滅亡
頼朝には何人かの乳母がいたが、一人が比企尼であった。比企尼は頼朝が伊豆国に
流されると自らも所領武蔵国比企郷に下向、この地から頼朝に欠かさず生活の資金を
送った。彼女は頼朝にとって、もっとも母を感じさせる女性であったに違いない。
比企氏は族滅してしまったので詳細な史料が残らず、系譜さえよく分からない。「吉見
系図」に記された文をもとに系図を作成すると次のようになる。
比企尼ー丹後内侍 (比企尼娘1) ー島津忠久(内侍息子1、島津氏祖)
惟宗広言(丹後内侍前夫) ー若狭忠季(内侍息子2)
安達盛長 (内侍後夫) ー安達景盛(内侍息子3)
ー女子(内侍娘)
源範頼 (内侍娘夫) ー吉見氏
河越尼 (比企尼娘2) ー女子(河越尼娘)
河越重頼 (河越尼夫) 源義経(河越尼娘夫)
女子A(比企尼娘3)
伊東祐清(A前夫)
平賀義信 (A後夫) ー平賀朝雅(A息子)
比企能員 (比企尼養子)ー若狭局
源頼家 ー一幡丸
この系図で注目すべき第一点は、頼朝の近親者がみな比企氏に連なっていることで
ある。範頼の妻は比企尼の長女丹後内侍の娘(なお範頼の子孫吉見氏が、前章に見た
『男衾三郎絵詞』のモデルといわれる)、義経の妻は次女河越尼の娘。伊東祐清(仇
討ちで有名な曽我兄弟の叔父。配流中の頼朝の命を救った人物)の妻であった三女は、
夫の戦死後に源氏一門の平賀義信に嫁いで朝雅を生んでいる。比企尼の猶子能員の娘
(若狭局)は頼家の室となり、嫡子一幡丸を生んでいる。
注目すべき第二点は、この系図に反映される比企氏勢力の広がりである。比企氏・安達
氏・河越氏は武蔵国の武士であり、平賀義信は武蔵国の国司・守護を兼ねている。上野国
の守護については二説あるが、比企氏、もしくは安達氏である。信濃国は平賀氏の本拠地
であり、比企氏が守護である。武蔵・上野・信濃と、現在の信越線に沿った国々には、み
な比企氏とその縁者の影響力が及んでいたことになる。しかも北陸地方には勧農使(守護
の前身とされる)として比企朝宗が派遣されており、若狭守護は丹後局の子の若狭忠季で
あった。かつて源義仲の勢力圏であった地方には、何らかの形で比企氏が関わっている。
比企氏は広範な地域に基盤をもち、源氏一門と血縁的に結び付く。頼朝が死去した時点
では、その力は北条氏に勝るとも劣らない。かかる比企氏に、御家人首席の座をかけて、
北条氏は戦いを挑んでいく。『吾妻鏡』には記されない工作がおそらくは次々に行われ、
たとえば安達氏や平賀氏も北条氏与党に取り込まれる。1203年、文官の大江広元です
ら死を覚悟するほどの緊迫した状況のもとで北条氏は兵を動かし、ついに比企氏は一幡丸
とともに滅ぼされた。
(この一文は放送大学教育振興会の許可を得て、『日本の中世』から抜粋した。)