15分で分かる日本中世史
                                                      本郷和人
1,学界を覆う閉塞感

  今日の日本中世史学は、何とも言いようのない閉塞感に覆われてしまっている。私にはそう思え
てならない。20年ほど前であれば、画期的な論文の登場を待望し歓迎する雰囲気を容易に感得する
ことができた。一年に数本だろうか、学会誌に瞠目すべき論文が掲載されると研究室で自然に話題と
なり、議論は次第に熱を帯びて内外に展開していった。従来の考察手法の抜本的な見直しやパラダイ
ムシフトへと繋がっていく社会構造の再認識などはさすがに滅多に発表されなかったけれども、少なく
とも学問的達成の貧弱な分野を補う意思と努力とを、声高な注意の喚起を待つまでもなく研究者の多
くが共有し、新しい知見や解釈が能動的に積み重ねられた。それゆえにある時期に特徴的な研究の
トレンドも自然に醸成され、大学や所属学会の垣根を越えて様々な学者・院生・学生がそこに参入し
ていった。熱気はたしかに存在したのだ。

  それがどうだろう。そうしたエネルギーが、いまはすっかり失われてしまった。五味文彦1・村井章
介2・保立道久3・元木泰雄4・高橋昌明5・入間田宣夫6・藤木久志7・神田千里8ら第一線の研究者
は依然として高い生産性を以て学界と社会への問いかけを続けている。ところが、それを起点とした話
の輪が生まれない。それに触発された試みがなされない。批判も補強も継承も。学問の層がすっかり
薄っぺらくなったと言うべきなのだろうか。すぐれた研究者は、その仕事が独自性を帯びる故に益々、
それぞれの拠点で孤立し、孤独で辛い戦いを強いられている。

  筆者自らが属する学界のていたらくを嘆こうというのだから、否応なく気は重くなるし、一方で責任の
重大さに思いを致さずにはいられない。理解と叙述が的はずれ・勘違いであっては周囲が許してはくれ
まい。そこで私は念のため、少なからぬ同僚や院生に取材を試み、意見を交換した。彼らの認識と感想
は、残念ながら、私のそれとほぼ重なった。みなが口を揃える。日本中世史は元気がない、と。更にある
具眼の編集者の言葉が、追い打ちを掛けるように私を打ちのめした。「現状では『日本の歴史 全30巻』
のような大きな企画は立てられない。採算の問題もある。だがより根本的には、是が非でも書いてもら
いたい、そう私たちに思わせる研究者が見あたらないんだ。」

  いったい、どうしてしまったのだろう。12年前の『人文書のすすめU』に今谷明は書いている。「網野
善彦にばかり書かせないで、若手に機会を与えて欲しい。」なるほど。若手・中堅が怠惰になり、書物を
まとめなくなったのか。それならば、学界全体の停滞も説明できるではないか・・・。いや、一度は納得した
ものの、事実はそう単純ではないようだ。歴史書の老舗である吉川弘文館の編集者に尋ねたところ、若
手・中堅は先ずは就職のため、目に見える研究業績を挙げるため、博士号を取得するために、その方途
の一環として競って専門書を書いている。出版される本の数は、一昔前より格段に多いのだそうだ。加え
てその編集者に指摘されて認識を新たにしたのだが、博士号が晩年の勲章、より端的に言えばおまけで
あったころの碩学たちも、さほど多くの学術論文・専門書を書いていたわけでは決してない。生涯に1・2
冊の著作を残している方が過半を占めている。つまりは、「いまどきの若いモノは・・・」と決まり文句を持ち
出してみても、説得力のある説明には繋がらないのだ。

 そこで、改めて考えてみた。この閉塞感は奈辺に由来するのだろうか。取り敢えず考えついたことを二つ、
試みに提起してみたい。

2,祝祭のあと

  私が準備した二つの答えのうちの一つは、「祝祭のあと」である。祝祭=まつりとは二つを指してい
て、その一つは太平洋戦争後の「再出発のまつり」とでもいおうか。軍部の台頭がとくに著しかった昭
和初年からこの方、日本中世史は周知の如く、悪名高い皇国史観に支配されていた。この歴史観にお
いては、歴史は文学であり、英雄興亡の物語であった。歴史は倫理であり、天皇への忠節を説いて、
生き方の規矩を臣民に押しつけた。歴史は政治ですらあり、人々を容赦なく戦地に追いやった。それ
ゆえに敗戦後に歴史教科書に墨が塗られて皇国史観が否定されると、研究状況は一変した。様々な禁
忌に制約されない、科学的分析に基礎を置く歴史学研究が、晴れて解禁されたのである。

  前近代のアーカイブである古文書・古記録(日記)を読み解く編纂事業は、明治初年から東京大学
史料編纂所を中心に進められ、皇国史観に立脚した平泉澄らもこれにはたやすく容喙し得なかった。
それゆえに皇国史観が退場し科学としての歴史学が歩みを始めたとき、豊かに蓄積されきたった実証
的な編纂史料が、きわめて良質な材料として研究者に提供された。手つかずの史料が眼前にある。複
雑な研究史の整理に手間取ることもない。成果が出せれば全てが新しく、直ちにその分野の第一人
者たりうる。学問的にまことに幸せな時節、祝祭の時節が到来したのである。

  皇国史観の後継としては唯物史観が登場し、1980年代にはそれも色褪せ始めたが、中世史学界
はこれに変わる歴史観を用意しようとしなかった。それは一つには明らかに研究者の怠惰の所為であ
るが、史料の豊富さも遠因となっていた感がある。史料の解釈の工夫次第で、効果的に新知見を導き
出すことが可能であったのだ。それでも流石に戦後中世史学の行き詰まりが顕著になったとき、もう一
つのまつりが幕を開ける。言うまでもなく、「網野まつり」である。

  東寺領荘園の膨大な分析と精華とを以て、実証的な荘園制研究のトップランナーとして学界に知ら
れていた網野善彦は、1978年に『無縁・公界・楽』を著して世の耳目を驚かせ、一躍注目を集めた。
先鋭的な試みの常として、当初は否定的な意見も少なからず表明されたそうであるが、すぐさま同書を
1974年に書かれていた『蒙古襲来』と併せ捉え、アカデミズムの脈絡の中で高く評価したのが石井進
であった。東京大学国史研究室の正統を受け継ぎ、伝統的な中世史学界の中枢に座を占める石井
は、学問的な冒険をためらい、学際性への対応に鈍感な周囲を厳しく批判し続けていた。彼は、同研
究室で基礎を学んだ網野をあえて異端と呼び、ともすると自らの殻に閉じこもろうとする臆病かつ怠惰
な学界を変革する、外来の旗手と位置づけた。アナール学派の社会史までを視野に収めた網野のスケ
ールの大きな理論は、石井によって実証性を補完され、また保証されて、瞬く間に区々たる学問領域を
乗りこえていく。

  民俗学・社会学・考古学などの手法を援用して描写される網野の研究世界は、多くの読者と共感者
を得ていった。網野と石井の二人三脚に法制史の笠松宏至と戦国史の勝俣鎮夫が加わったユニットを
人々は「四人組」と呼んだが、彼らは現代とは様々に異なる中世社会を活写し、読者の眼前で展開して
見せた。「網野まつり」はかくて大変な盛況を見せ、網野の本は単著だけで40冊あまりが上梓された。

  その網野が2004年に亡くなった。石井(2001年)、また一貫して中世史を支え続けた永原慶二
(2004年)も世を去った。「網野まつり」は当然ながら、一応の幕引きとなった。また永原に代表される、
「学問的に幸せな時期」を生きた世代も、表舞台から惜しまれつつ姿を消した。この意味でも、祝祭の
時節は終わりを告げたのである。

  さて、二つのまつりは何をもたらしたのか。そのあまりにも大きな仕事を、残された私たちは質量と
もに計りかねている。祭りの功績も積み残された課題も、十分に咀嚼するにはまだまだ時間がかかり
そうである。新しいまつりを始めるためにも、批判と継承は精確に行わねばならない。だが、その前途
の遼遠を思い、気づけば思わず尻込みをしている。「祝祭のあと」の気怠さ。いまはそういう時期なのか
も知れない。

3,前近代史の地盤沈下

  私が準備した二つの答えのうちのもう一つは、「前近代史の地盤沈下」である。これにも更に二つの
要因があると整理することができる。@内在する問題点、とA外部からの圧迫、である。

 @内在する問題点

  日本には他国に例を見ないほど、大量の史料が残されている。何故か、と問われれば、とりあえずは
   ○ユーラシア大陸の東の外れという地政学的条件。
   ○外敵の侵略を受けず、激烈な革命も経験しなかった。
   ○幸か不幸か他国に発信する宗教・文化を持たなかった。
等々を想起することができるが、ここでは深入りしない。ともかく、私たちは真摯に丹念に史料に向き合
えば、日本の中世社会をかなりの程度、立体的に復元できる。

  これが例えばフランスであれば、フランス革命時に教会がみな焼かれ、文書も失われた。織田信長
による比叡山の焼き討ちの如きが、全国規模で起きているのだ。そのため、史料に準拠するだけでは、
過去を探求する手立てとして十分ではない。いきおい理論を磨く必要に迫られ、アナール学派ほかの論
理的な歴史学が発達した。これに比して日本は理論構築にゆとりを以て対応できたし、不要不急でなけ
れば弛緩するのが世の常で、実際にそうした努力を怠ってきた。

  我が国での史料の解析は、明治時代に始まる史料編纂所での歴史資料の編纂事業を中核として進
められてきた。一方で欧米からの歴史理論の受容の必要性が等閑視されたわけではなく、例えば東京
帝国大学教授の三上参次は後任の助教授、平泉澄に理論研究の重要性を強く説いたと言われる。19
30(昭和5)年の平泉(35歳)の外遊はまさにそれを目的としたものであったが、彼の研鑽は皮肉なこと
に、およそ科学とはかけ離れた皇国史観として結実したのであった。

  敗戦後の皇国史観の徹底的な否定は、正反対の位相を有する唯物史観の隆盛を招来するが、それ
もやがて新たな理論に批判的に継承されるべきであった。ところが、ベルリンの壁の崩壊やソビエトの瓦
解を目の当たりにした今日ですら、唯物史観はしぶとく根を張り、これを凌駕する潮流はなかなか見えてこ
ない。研究者の怠慢はまさに責められるべきであるが、では彼らは如何にして給料分の活動を持続してい
るかといえば、実証性を口実に史料解釈に安易に依存しているのである。

  古記録を読み込んだり古文書を分析・分類するのは、長い修練を土台として行う、確かに困難な作業
である。そのせいもあって少なからぬ研究者は難解な史料を読み解いた時点で一定の満足と安心を覚え、
獲得した内容を原稿用紙のマス目に移し、それを以て中世史の論文として提出してしまう。だが、そんなも
のの何処に「論」があるのだろうか。それがどうして「論文」の名に値するのだろうか。彼らの無自覚なあり
ようは、間違いなく中世史学界の停滞と閉塞に結びついている。

  IT技術の発達がもたらすデータベース開発の進捗も、忘れずに視野に入れておかねばならない。史料
を読むという行為は、
 (@)自分で原史料の所在を捜索し、機会を捉えて閲覧し、解読困難なくずし字と格闘しながらデータを
    得る(主に戦前)
 (A)主要史料の多くが活字に翻刻され、読解とデータ蒐集が(@)に比べれば容易になる(戦後の昭和期)
という過程を経て、今や
 (B)各種データベースが整備され、検索作業に工夫を施せば、キーワードなどをもとに必要なデータを
    簡便に入手できる
というステージにある。

  データベースの開発により、誰もが「編纂ごっこ」に携われるようになった、とはある練達な史料編纂者
の述懐であるが、彼の言葉を借りるならば、データベースの開発により、誰もが「実証ごっこ」に従事できる
ようになった、のである。それゆえに私は再び問いたい。こうした作業を文章化したものを、果たして論文と
呼ぶことができるのか。頭脳ではなく腕力で作成したものを以て、どれほど社会に浸透していけると高を括
っているのだろうか?実証的態度を隠れ蓑に、「考えよう」としない歴史屋たち。史料に依拠してさえいれ
ば、という貧しい方法論の横行を許していては、中世史の収縮は止まるまい。

  話を元に戻す。唯物史観が退場しつつある現状への対応として、学界では三つの対応が見られるよう
に思う。Aとして、圧倒的な網野史学が挙げられる。社会学に親和性を持ち、他の学問との学際性を模索
するその手法に、私たちは今後も学んでいかねばなるまい。ついでBとして、実証史学の真の錬磨がある。
史料を深く読み込む。記事の裏を推測し、行間に真実を探る。一見しただけでは関連性すら見えない史料
を鋭い解析によって関連づけ、そうした作業の集成として従来とは全く異なる歴史像を立ち上げる。こうした
方法を採る研究者としては、本郷恵子9と桜井英治10を挙げることができよう。更にCがある。これは、研
究方法の主流を形成できぬのを承知の上で、果敢に理論構築に挑戦し続ける、というものである。これに
あてはまる刮目すべき研究者が、新田一郎11と東島誠12である。彼らの動向は注視して見守る価値を
有する。

 A外部からの圧迫
  東京大学の国語の入試問題の変遷をあとづけてみると、容易に看取し得ることがある。四半世紀ほど前
と比較してみると、まず問題数自体が減少している。現代文では、長文の解答の価値が低下しているようで
ある。変化が著しいのが古文・漢文で、誰が見ても明らかなほどに、答えやすくなっている。推測するに、従
来のような出題では受験生はひとしなみに点が取れなくなり、差別化に苦慮した大学側が対応を余儀なくさ
れた、ということであろうか。

  国語は人文系学問の基礎である。若者たちの国語能力の低下は、人文系学問全体の低迷に直結する。
就中、古典は彼らにとって、縁遠いものになっているようだ。むろんその代わりに彼らは英語を話し・聞く能
力やIT技能を伸ばしている。彼らのトータルな知能が下降しているのでは決してなく、古典が時代遅れの代
物に成り果てているのだ。

  教育現場に身を置いているとイヤというほど実感できるが、なにしろ日本史、とくに前近代史は人気がない。
これは一つには初等・中等教育の歴史の授業が暗記中心になっているゆえであろう。何年にはこれが作られ、
何年にはだれがそれを定めた。こうした無味乾燥な事物の羅列が子どもたちの興味を惹くわけもなく、しかもそ
の丸暗記を強制されては、彼らは歴史を憎むようにすらなっていく。私はつい数ヶ月前、医学博士(千葉大学)を
取得している若い女医の方に「へえ、本郷さんは歴史の研究をしているんだあ。それじゃあ、暗記は得意ですよ
ね?」と言われ、愕然とした。その医院には二度と足を向けていないが、それほどに「歴史=暗記モノ」の図式は
社会に定着している。能動的な実験や調査ではなく受動的な暗記こそが最も適切なアプローチと観念されている
とは、取りも直さず、歴史が不動かつ不変で、私たちの現在にのしかかっている、という重苦しい認識の遍在を意
味する。そうした教育を若いうちから強制されている人々が、この先に歴史学に興味を持ち、エネルギーを与えて
くれるとは思えない。

  教養主義の崩壊、腹の足しにならぬ教養より実学を、という社会の趨勢も中世史には厳しい逆風になってい
る。人間の精神を涵養するための教養の重要性は、事あるごとに言い訳のように繰り返される。繰り返されるだ
けまだまともではないかという醒めた見方も成り立つだろうが、ともあれそれはあくまで建前であって、社会が実
益と効率こそを追い求めていることを若い人たちはよくよく肌で感じている。

  いずれが卵でいずれがニワトリかはさておいて、社会は数値化された実績を要求し、若者はそれを産出する
ためのスキルを体得しようとし、大学はそれに対応すべく伝統的な学問の体系の改編に着手する。結果として前
近代史の授業に学生はいなくなり、講座は他の分野に先んじて閉鎖され、若い研究者の就職機会は激減する。
新しい血が導入されないと職場の活力が失われる、とはしばしば耳にする言葉であるが、中世史学界だけが例
外であるはずもない。

  先の「学問的に幸せな時期」の研究者は、学問への敬意が十二分に存在していた社会に生きたという意味
でも、まことに幸せな世代であった。延々と続く職場(東京大学情報学環というところである)での会議の合間に、
私が古い世代の学問への献身を話題にすると、ある著名な若手准教授が苛立ちを隠さずに言い捨てた。その
大先生たちがのんびりと研究しかしてこなかったから、いまぼくたちがカリキュラム再編成だの、財務体質の見直
しだの、海外の大学との連携だの、そんな面倒くさいもろもろをすべて背負い込む羽目に陥ったんじゃないか!
むろん彼はひどく疲れているか、虫の居所が悪かったのだろうが、それでもその発言に真実の一端があることを、
私は認めずにはいられない。

  例外も往々にして見受けられるが、研究者とは欲得抜きに、「考える」ことが好きだからこそ、その道を選択し
た人の謂である。彼らが嬉々として机に向かえる環境は、彼らが本当の意味で研究者たり得る条件は、どうす
れば整備されるのか。いまほどそのことを議論しなくてはならない時は、これまでになかったであろう。

1、『書物の中世史』(みすず書房、2003年)・『中世の身体』(角川書店、2006年)・『王の記憶』(新人物往来社、
  2007年)など、人文系学問の学際性の真髄を示す著作を矢継  ぎ早に刊行している。
2、『中世日本の内と外』(筑摩書房、1999年)・『東アジアのなかの日本文化』(日本放送出版協会、2005年)など、
  東アジアにおける日本中世史を描く点で出色。村井の活躍により、ふるわない中世史の中で対外関係史だけ
  は盛況である。なお、このジャンルでは榎本渉の『東アジア海域と日中交流』(吉川弘文館、2007年)も注目される。
3、『歴史学をみつめ直す−封建制概念の放棄』(校倉書房、2004年)など。歴史理論の第一人者であり、早くから
  歴史的データベースの作成に携わってもいる。
4、『保元の乱・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス、2004年)など。中世成立時期の政治史の旗手であり、権門
  体制論の理論的再構築を行う。
5、『武士の成立 武士像の創出』(東京大学出版会、1999年)など。武士の本質を追い求め、戦士の範疇のとどま
  らない多様性に言及して、朝廷と武士の接合点を探る。
6、『北日本中世社会史論』(吉川弘文館、2005年)など。従来は辺境として切り捨てられていた東北地方からの視座
  により、全く異なる新鮮な中世史像を描く。
7、『雑兵たちの戦場−中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日新聞社、1995年)など。専ら歴史小説によって語られていた
  戦国時代像を  アカデミズムの脈絡で、興味深く捉え直す。
8、『一向一揆と戦国社会』(吉川弘文館、1998年)など。戦国時代を舞台として、人間と信仰とのありように肉薄する。
9、『中世公家政権の研究』(東京大学出版会、1998年)など。中世朝廷研究の第一人者であり、実証作業の奥深さ
  とダイナミズムに魅力がある。
10、『日本中世の経済構造』(岩波書店、2003年)など。中世経済史を基軸として、社会構造に鋭く切り込んでいく。
  網野史学の後継者と評される。
11、『日本中世の社会と法』(東京大学出版会1995年)など。中田薫・石井紫郎らの伝統を受け継ぐ、法制史研究室
  教授。法への深い洞察をもとに、国家や社会を考える。
12、『公共圏の歴史的創造』(東京大学出版会、2000年)など。歴史理論を縦横に駆使して、人々のありように肉薄し
  ていく。新しい潮流を感じさせる、若手の第一人者。