方法論

  
まとまりのない方法論

                         本郷和人

私は先に『中世朝廷訴訟の研究』を著し、承久の乱以降の朝廷の支配権は幕府の助力なしに 成り立ち得なかったこと、かかる制約のもとで朝廷の訴訟制は精緻に整備されていったことを 説いた。朝廷訴訟のまとめはそうであったとして、では幕府、朝廷、中世国家にどのような位置 づけを与えようとするのか。論文を読んで下さった先学や学友から、私はしばしばこのように 問いかけられた。
中世国家論といえば、一方に『権門体制論』があり、もう一方に『東国独立国家論』があるも のの、現在の議論は低調であると言わざるを得ない。近ごろ盛んに行われている朝廷研究は、 実証的に朝廷のありようを解明しようとする方向に力点が置かれていて、朝廷を超えた議論を あまり行っていない。むろん私の訴訟制のまとめもその一つである。
 制度と政治の差異を逃げ口上として、私はこれまで中世国家論に言及することを避けてきた。 しかしながら朝廷訴訟の性格を明確にするためには、朝廷訴訟の位相の考察は避けて通れぬ作業 であろう。そこで本稿は朝廷と幕府の交渉を文書・系図を使用しながら再検討し、その成果を通 じて中世国家論に参入する。先の本での実証を踏まえながら、鎌倉時代の国家像を、でき得るな らば理論的に捕捉してみたいと思う。
最近保立道久氏は、権門体制論への石井進氏の批判に反批判を試みられた。黒田俊雄氏は近代 的国家権力観を全時代にもちこんだ、と石井氏は説かれる。だが黒田氏の論は日本中世にも国家 があった、という「中世の常識」(A)に基礎を置くものであり、石井氏の批判は的外れである。 保立氏はそう主張される。要するに、黒田氏は日本中世に即した個別具体的な国家像を模索して いる(1)のであって、石井氏がいうように普遍的な近代国家イメージに寄りかかっている(2) のではない、ということであろう。
私は保立氏の石井氏批判は一面的であるように思う。石井氏の論全体を読めば明瞭であると思 われるが、氏が疑問を投げかけているのは「はじめに国家ありき」という安易な前提そのもので ある(B)。ただ私の石井氏論の読みは誤りだ、ということになると話がややこしくなるので、 今一度改めて問うてみたい。保立氏も認めているように黒田氏は日本中世に国家があったことを 常識とされる。ではその常識は確かな史実なのですか。本当に中世の人々は幕府や朝廷を超える 何らかの枠組み、それは別に国家でなくても構わないが、を意識していたのですか、と。そして 黒田氏は結局、この問題に答えることがなかったように私は思う。だからこそ、石井氏の批判は いまだに有効であるとも思うのである。
字面のみでは分かりにくいので、保立氏の説く黒田氏説(1)・石井氏説(2)、
私の石井説理解(B)を図示すると次のようになる。
┌─A常識として中世にも国家があった─┬─1中世なりの国家を模索する
                          2近代国家をあてはめる
└─ B国家の存在は立論の前提になり得ない
各々の意見の位相は一目瞭然であろう。
日本の東と西の特性を論じ、B論と正面から向き合われたのは、いうまでもなく網野善彦氏で あった。残念ながら今の私には氏の論と対峙し、かつB論を検討するだけの準備がない。本稿で はA論に限定した議論をしてみたい。
1と2の別に接したとき、私は思想史における尾藤・家永論争を想起した。尾藤氏は思想を当 時の社会の脈絡の中で復元し、理解することを説いた。家永氏は私たちの価値基準によって思想 を検討し、有益な部分を現代に生かすことを説いた。尾藤氏の説は1に近く、家永氏説は2に近 い。そしてこの二つの方法は、歴史事象を読解する際に、ともに必要不可欠である。
1が重要であることは皆が認めよう。しかし当時の人々の意識のみに目を奪われていると、歴 史分析が不十分になることもある。たとえば卿二位、源通親、西園寺氏を想起してほしい。同時 代人にとって、かれらの権勢は絶大であった。だが前二者は後鳥羽上皇権力の一端、後者は後期 院政権力の外戚にすぎない(この点は本稿でも後述)と私は指摘した。彼らを中心としては制度 史は語れない。やはり2の視点も必要なのである。
そこで本稿の前提として、今まで試みられなかったと思うのだが、先ずは2を以て鎌倉時代の 国家像を見てみよう。近代的国家像を中世社会にあてはめることは石井氏・保立氏、ともに否定 的であるが、あえてこれを行ってみるのも無意味ではあるまい。
ア鎌倉時代には元寇があり、人々は外国の存在と自国の位相とを否応なく意識させられた。日 本という国家は元などの外国によって規定される。国家の存在を前提とする黒田氏が、神国思想 の生成を強調する所以である。こうしたいわば非常時において、国家高権の発露として注目され るのは「外交」と「軍事」の二要素である。
対元外交を主導したのは幕府であった。朝廷は元に返書を遣わそうと企図したが幕府はこれを 許可せず、強硬姿勢を貫いた。対応の妥当性については議論があろうが、外交権は天皇と朝廷に はなく、幕府に掌握されていた。一方、軍事を担当していたのが幕府であったことは言うまでも ない。天皇・朝廷も祈祷行為を通じて戦ったのだ、という意見もあろうが、2の立場にあるここ では考慮に値しない。
非常時に際しては、「国家」のなすべきこと、外交と軍事を行っていたのは幕府であった。ア においては、幕府を中心として国家像を描く必要性が認められる。
イ平時においてはどうだろうか。通常、国家高権の支柱となるのは「官僚機構」と「警察権力」 であるといわれる。この二要素に焦点をあわせると、再び幕府と朝廷が視野に入ってくる。
幕府は政所吏僚・評定衆・引付衆ほかの官僚機構を備えている。また当然ながら、強力な警察 権力を併せ持っていた。朝廷はというと、評定衆・文殿衆以下の官僚機構は整えている。だが幕 府に再軍備を禁じられた承久の乱以降は、警察権の大部分を六波羅に依存している。イにおいて も、大まかに言うならば、幕府は朝廷より高次に位置する権力体なのだと評価し得る。
2近代的国家を中世社会に投影してみると、ア非常時においてもイ平時においても幕府に重き を置いた国家像を想定することになる。天皇・朝廷はすでに国家の中心にないことが分かるので ある。 以上のまとめを前提として、ついで1を見ていこう。思想史における尾藤氏の方法を以て中世 の人々にとっての国家像を模索してみると、幕府は、朝廷は、どのような姿を現すであろうか。 1に立脚して中世国家論に言及する。これが本稿の目的である。
二、権門体制論について
私は別に論考を用意し、そこで次のことを説いた。
 朝廷の貴族たちは、本来直接に幕府と交渉を持ち得たはずであった。たとえば幕府に訴訟をお こす場合、「本所の挙状」は必ず必要であり、書式まで定められている。ところが実際には、彼 らがそう行動した形跡は残されてていない。文書も一切残っていない。例外は摂関、それに上皇 であった。なぜ彼らだけが例外か、と問うならば、彼らの卓絶した地位を想起するのが妥当であ ろう。記録を読まれる方にはくどくどしい説明は不要であろうが、摂関と上皇は天皇権の代行者 として、他とは隔絶していた。それゆえに、当時としては重要な政治行動であった幕府との交渉 において、この両者だけは直接北条氏に話しかけることが可能だったのである。
摂関と上皇の政治的位置について、前著において私は、「摂関と上皇の互換性」として指摘し た。すなわち、摂関も上皇も蔵人・弁官の奉行の助けられ、有能な廷臣の合議と記録所を諮問機 関として政治を行う。両者はともに天皇権限の代行者であって、鎌倉後期院政は九条道家等の摂 関政治を継承する、と。鎌倉後期院政のこうした性格をつきつめていくと、実は権門体制論批判 の一方法に辿り着くのではないか。
権門体制論のキーワード、「相互補完」は極めて懐の深い概念であり、この障壁を乗り越える のは容易ではない。様々に考えた挙げ句、私は拙著において、思い切って薪・大住荘争論を取り 上げた。黒田俊雄氏が公武の相互補完例とした事件を全く違う視点で読み解くことにより、公武 の性質の差異、ひいては公武の支配の質の差異を明らかにしようとしたのである。しかし私の意 図に気づいて下さる方はなく、この方法は見事に失敗した。そこで今、私は新たな批判の方法を 求め、朝廷の政治構造への着目を提起する。
 黒田氏が権門体制論を説かれたころ、鎌倉時代の朝廷のありようはほとんど解明されていなか った。鎌倉時代後期を例にとれば、1970年代どころかつい最近まで、「両統の迭立」ですべ てが語られていた。次代の南北朝につながる大覚寺統と持明院統との対立のみが強調され、あた かも朝廷全体が二派に分かれて抗争していたかのようにいわれていた。複数の上皇と、彼らに忠 節を尽くす廷臣たち。治天の君の交替は、権勢をふるう廷臣の交替でもある。かかるイメージは 「権門勢家による朝政運営」という概念とよく融和する。
またこのイメージは井原今朝男氏が説かれる「家政統治機構が国政のそれに転化する」という 命題とも表裏の関係を構築しうる。摂関家政所と「摂関の家産的官人」である政所家司は、摂関 が朝廷の政務を掌握すると、そのまま朝政を担う存在となった。院庁と「上皇の家産的官人」で ある院司は、院政においては、朝廷の諸事を取り仕切るようになった。朝政の構造をこのように 把握するのである。
 右の解釈は、文書の理解とも密接な関連を有する。私は院宣を整理した別の論文において、院 宣とは院司が奉じる文書であると信じて疑わない研究者が多いことを指摘した。「院政において は、院宣は政治的に最も重要な文書であり、院庁職員たる院司が院宣を奉じる。」原則論を固守 する理解は、それゆえに先の命題にたどり着く宿命にある。
 確固たる家政機関を下部組織としてもつ複数の摂関、複数の上皇が併存し、代わる代わる政権 の座に就く。繰り返すが、かかるイメージをもつ者にとり、権門体制論は実に心地よい理論であ る。平安時代から中世朝廷の姿を照射する研究者に同論受容者が多いように思うのも、このゆえ であるかもしれない。
しかし、鎌倉中・後期に限っていうならば、右の理解は明らかに誤っている。まず、院宣を奉 じるのは院司ではなく、奉行たる弁官と蔵人である。院庁組織はすでに有名無実であり、国政と は何ら関係しない。摂関家でも同様である。九条道家ら摂関が朝廷の実権を掌握する場合も、彼 らの意志を奉じるのは弁官・蔵人から成る奉行層である。摂関家の家司は、わずかに南曹弁が南 都に対してのみ、活動しているのが実状である。政権を担う摂関や上皇は、結局のところ、自ら の一身を弁官・蔵人を中心とする当時の官僚組織の上に乗せるだけである。けっして家産的従者 とともに廟堂を占拠するのではない。
こうした政治状況の理解には現在の中央省庁を想起してもよいが、当時に目を転ずれば、たち どころに適当な実例が見いだせる。すなわち、東寺である。東寺には二十一口供僧をはじめとす る学侶組織が存在する。彼らを統括し、指揮するのは東寺長者であるが、彼らは仁和寺や醍醐寺 や大覚寺等々、東寺外から任じられる。朝廷も同様である。実務を担う奉行層はあくまでも朝廷 に属している。上皇や摂関は彼らの助けを得て政務にあたるのであり、決して院司・家司が活躍 するのではない。当然、政権の交代は上皇・摂関が交代するのみで、朝廷に属する奉行の地位に は影響しない。具体的に図式化すると、朝廷の政権は
1、(権門勢家+彼の家に従者として編成された、弁官・蔵人に任じる中級官人)
 +外記や史に任じる、非家産的官人たる下級官人
2、天皇権代行者+非家産的官人たる中・下級官人
黒田氏が想定する1ではなく、極めて単純に2であった。上皇の股肱の臣、まさに家産的従者と もいうべき伝奏にしても、一人の上皇にのみ仕えていた人は稀である。
 上皇・摂関につぐ家格を誇る大臣家にもふれておこう。黒田氏が想定する公家権門とは、経済 的には本所たりうる上級の貴族であろう。彼らは政務においては上卿を勤め、大臣に昇る。
 ところが拙著で強調したように、当時の政局にあって上卿層はすっかり実権を奉行層に奪われ ている。上皇・摂関による朝廷政治は上卿層の排除によってこそ出現する。西園寺氏を除いては、 彼らは儀式遂行のために存続していた。
 結局のところ政治活動に従事する権門勢家は、実はどこにも存在しない。複数の権門勢家が併 存し、集散離合を繰り返しつつ政務にあたる、という認識はほとんど現実味を有していない。権 門体制論は、すでに鎌倉時代中期の段階(少なくとも九条道家政権期には)で、史実との著しい 乖離を示す。政治局面に限定して批判するならば、平安末・鎌倉初期のみに有効な理論を以て中 世全体を推し量るのは、いくら理念型であろうとも、やはり無謀なのではなかろうか。

 網野善彦氏は鎌倉期の国家を論じる歴史家を、「権門体制論者」と「東国独立国論者」に分け られた。それでは前者を批判した私は後者に属するのか。いや、そうではない。私は後者にも疑 問を抱いている。
 私の朝廷訴訟制度の理解については種々のご批判をいただいたが、中で特に多かったのは、幕 府は朝廷の諸事に関わりたくなかったのではないか、幕府が朝廷訴訟の変容を推進したとは考え にくいだろう、というものであった。こうした意見の根拠となるのは、幕府は京都との関係を積 極的に断とうとしたのだ、という有力な説である。
 幕府はいかにして朝廷の諸権益を侵食したかが盛んに論じられるなかで、1977年、山本博 也氏の「関東申次と鎌倉幕府」は初めて「幕府の朝廷への不干渉」を提起された。それは鮮やか な発想の転換であり、高く評価されるべき業績であった。83年、佐藤進一氏は『日本の中世国 家』で山本説を受容し、関東独立政権論にまで議論をたかめられた。以来、幕府の不干渉説は有 力な仮説として定着し、多くの研究者に影響を与え続けているようである。
それでは山本氏はどのような史料を以て、幕府の不干渉説を主張をされたのだろうか。そこで 先の論文を読み直してみると、実は適当な史料が発掘されていないことに気づく。京都は様々な ことについて鎌倉に「仰合」、相談をもちかけてくる。そのとき幕府は「可任御計」、どうぞお 心のままに、と答える。これだけなのである。山本氏はこのわずかな史料をもとにしての論理の 展開で、京都政界からの幕府の離脱を説いている。しかし氏自身が論文中で繰り返しいわれるよ うに、右の史料は単純すぎて他の解釈が成り立つ余地が十分にある。残念ながら論理の土台に相 応しいとは言い難い。
 根拠とすべき史料を提示していない氏への批判としては、ごく素朴に史実をもって問いかける のが有効であろう。なぜ幕府は、九条道家が忠世王の即位を画策したときには「可任御計」と言 わなかったのか。なぜ幕府は、そんなことをしたら皇室内に遺恨が生じるのは明白であるにもか かわらず、1275年、持明院統煕仁親王の立太子を実現させたのか。幕府の不干渉説で、これ らを説明できるだろうか、と。
 私とても幕府が朝政全般の管掌を企図したとは思っていない。幕府にとっての些事にたいして は、幕府は「可任御計」というだろう。けれどもそれは、幕府が京都との交渉を忌避したことと 同義ではない。史実に即してみても、幕府はしかるべき場面では、政治的な判断に基づいて朝廷 の具体像を定めているのだから。
 次に佐藤氏の説を見ていこう。氏は先のご著書に「幕府と王朝の関係は、相互依存から相互不 干渉・自立へと変化する」と簡潔に説かれている。相互依存の語は権門体制論を意識して用いら れていると思われ、幕府の不干渉・自立説は同論への鋭い批判としても機能している。けれども、 やはり佐藤氏も、十分な根拠となる史料を明示されていない。幕府自身が不干渉・自立を表明せ ぬ以上、私には氏の説が説得力をもつようにはどうしても思えない。
 例として一点だけ、具体的に検討しよう。佐藤氏は山本氏の指摘を受けて、幕府が京都の篝屋 役を廃止したことを過大に評価される。これこそ幕府の王朝勢力からの離脱の証左だ、といわれ るのである。本当にそうだろうか。京都の治安維持を担うより強力な存在、六波羅探題の役割を 全く等閑視してはいまいか。
 たしかに1247年、幕府は御家人の篝屋役を一旦廃止した。しかし六波羅の機能には何らの 変化も見られない。京都に事あらば、頼られるのは依然として六波羅に結集する御家人の武力で ある。京都の平和を守るのは検非違使等ではなく六波羅であり、篝屋役も京中治安維持の一手段 にすぎない。当然、同役の廃止は、こうした脈絡の中で解釈し直されるべきである。
そもそも本当に自立を目指すのならば、なぜ幕府は六波羅自体を廃止しなかったのか。自衛の ために朝廷勢力の監視は必須であり、それゆえに廃止しなかったというのだろうか。そうである なら尚更のこと、この時点における「朝廷と幕府の相互不干渉」などは全くの夢想に他なるまい。 朝幕は否応無く、関わらざるを得なかったのである。苛酷な現実を生きる幕府の首脳は、そんな ことは当然熟知していたに違いない。ならば、幕府の不干渉説は意味を為さぬのではないか。

 私は「権門体制論者」ではない。対等の交渉(天皇位を巡る両者の駆け引きは好例となろう) を行う幕府と朝廷の摂関・上皇。そのイメージをもつゆえに、私は東西に公権の存在を認めたい。 しかし私は「東国独立国論者」でもない。両者の交渉を積極的に位置づけていきたい。この意味 で私は、鎌倉前期までを権門体制論で捉え、以後は朝幕の具体的な関与に着目する上横手雅敬氏 の論に近い。
 西園寺氏を中心に、朝廷の政治史を生き生きと描写されたのが上横手雅敬氏である。拙著をま とめたとき、関東自立論を受容せぬのは何故か、と同様に周囲からしばしば指摘を受けたのは、 上横手氏の業績をきちんと批判すべきではないか、ということであった。この点について私の考 えを述べておこう。
 鎌倉時代の政治状況を説明する上横手氏の中心的な論文は、『岩波講座 日本歴史五』に収録 された「鎌倉幕府と公家政権」である。本の性格に規定されてのことであろうが、この論文では 論理に重きが置かれており、演繹的に歴史解釈が展開される。論理を支えるのは氏自身の卓越し た歴史観であり、論拠への言及はほとんどない。この意味で、政治でなく制度を、論理より史料 を、という態度をとった前著での私には、氏の歴史叙述をうまく受け止められなかった。現在改 めて考えてみると、右の論文が所謂「普通の」論文としては書き直されなかったこともふまえて、 氏の叙述を史料を以てあとづける作業こそが我々の課題なのではなかろうか。次にその一例を挙 げよう。
 後嵯峨天皇が登場するころの朝廷で、「もはや(西園寺)公経は(九条)道家との連携を危険 なものと判断し、道家を見限った。」と氏は述べられる。根拠は「公経は(中略)忠成王のため にあつらえた装束を早速後嵯峨に献上する(平戸記仁治三・正・二十、上横手氏注)など、変り 身の早さを見せた。」とあって、他に格別な史料は提起されてない。そこで私は、西園寺実氏の 二人の子息のありようを提示してみたい。
西園寺実氏の嫡子が公相で、公相の子が実兼であることはよく知られている。一方で、公相に 公基という兄がいたことにはさほど注意が払われていない。弟が兄を差し置いて家督となること は当時珍しくなかったから無理もない。けれども公基と公相の関係は、そう単純ではなかったよ うである。
 公基の母は参議親雅卿の娘。公相の母は家女房。母の家は公基の方が上である。母を重んじて の家嫡ではない。では実氏が公基を疎んじていたか、というと、これもあたらない。公基は17 歳で参議、18歳で権中納言、22歳で権大納言と右大臣に至るまで順調に昇進しており、その 背景には当然実氏の後押しがあった筈である。
親房ーー顕雅(号法性寺)ーー雅藤
    女子(九条道家家女房、右衛門督局)
藤原親雅ーー女子(西園寺公基母)親房
女子(二条定高正室)
 公基が庶子となった原因は、やはり彼の母の家にあるらしい。彼の母の家の当主、法性寺顕雅 は九条道家に最後まで従った家礼で、道家の死に近侍している。九条家の法性寺を家名とすると ころからも、同家への親近ぶりが窺える。このほか、顕雅の姉妹は道家の女房、公基母の姉妹は 道家第一の家礼二条定高の正室である。
公基の周囲の人間を見渡すと、上横手氏の指摘が生きてくる。西園寺氏は早くから将軍頼経と北 条氏の微妙な関係を見抜いていたのではないか。頼経の存在を権勢の基盤とする道家の政局運営 に危惧を抱いていたのではないか。それで九条氏に近い公基と同時に公相の官位も進めていった。 やがて道家が後鳥羽上皇帰京を打診して幕府の怒りをかった事件等を契機に西園寺氏は九条一党と 一線を画すこととし、それが延応元年の公相の公基超越、家嫡化となって具現するのではないか。
 このように、上横手氏の歴史叙述はまことに的確である。但し、私は西園寺氏に関しては、氏 と見解を異にする。朝廷にとって幕府の意向は大きな意味を持つ。そこで幕府との交渉に当たる 西園寺氏が政局の中枢に位置する。これが氏の理解である。しかし、私は上皇・摂関こそが天下 の重事を幕府と交渉したのではないか、と考えている。朝幕交渉に於ける西園寺氏の役割は相対 的なものであり、当然、同家の政治力がそれほど強大であったとは思えない。この点については、 他に論考を用意したい。
  五
 中世の人々の視線にそって国家像を模索してみると、「権門体制論」も「東国独立国家論」も 妥当性を欠いているようである。代わりに本稿が指摘するのは次の二点である。
一、鎌倉時代には朝廷と幕府、二つの公権が存在する。
一、両者は密接な関連を有するから、鎌倉時代史は両者の有機的な動向を基軸として述べ
  られねばならない。
月並みではあるが、鎌倉中・後期の朝廷のすがたが明らかになりつつある今こそ、鎌倉時代政治 史の理解を深める好機である。
京都と鎌倉の公権は、室町時代にも引き継がれていく。言うまでもなく、京都の室町幕府と鎌 倉の関東府である。前者は畿内・瀬戸内・中部地域を、後者は関東と奥とを管轄する。各地域の 自立化傾向は時代を下るにしたがって明瞭になり、鎮西を加えた各地域において小規模な公権を 構築する運動が激化する。とくに応仁の乱後の戦乱を経て、微小な公権は各地域を代表する公権 に成長し、更に地域を超えた「国家の公権」となっていく。鎌倉時代に二つの地域、二つの公権 を想定するならば、
 より多くの地域の分出と公権の分散→公権の統合→真の意味での統一国家の出現
が中世後期の「国家」の推移であると考えられる。