文保の和談 ー鎌倉時代、皇位の継承はだれが定めたかー

                      本郷和人

 文保の和談というと、戦前に歴史教育を受けられた方の多く
は「ああ、あの事件だな」と即座に思い出されるであろう。戦
後になって皇室関係事件への注目度は甚だ低下したが、それで
も一応一回同等学校の授業では言及されているらしい。筆者は日本
史の授業すなわち安眠の時間と決めていたので覚えがないのだ
が、試みに勤勉にして明敏な同僚K子氏に「文保の和談て知っ
てます?」と尋ねると、「鎌倉時代末の文保年間に、二つの皇統
が相談して、今後は両統から代わる札わる天皇を出そうと決め
た事件でしょ?
」。との答えが返された。

 なるほど山川出版社の教科書『詳説日本史』(一九九四年)に
は、本文に「鎌倉中期以後、皇室は後深草上皇の流れの持明院
統と亀山天皇の流れの大覚寺統にわかれて、…十四世紀初め、
幕府は解決策として両統が交代で皇位につく方式(両統迭立)
を定め、」という記述があり、巻末の年表には「一三一七(文
保一)年、文保の和談。両統の迭立が定まる」と端的に記して
ある。さらに同社の『詳説日本史教授資料』(一九九四年)を
みると、「…こうして皇位の争奪が激化してきたので、幕府は
文保元年(一三二七)、
 1、花園天皇が譲位し、皇太子尊治親王(後醍醐天皇)が践
   祚すること、
 2、今後、在位年数を十年として両統交替すること、
 3、次の皇太子は邦良親王(後二条天皇皇子)とし、その次
   を量仁親王(後の光厳天皇)とすること、
の三点を示し、1・2について双方の了解を得たといわれる。
これが文保の和談とよばれるものである。」と整理されている。
この本は教科書をさらに詳しく解説したもので、高校の先生方
も参照されているそうだ。居眠りせずに日本中世史を学んだ人
がどのように文保の和談を認識しているか、以上の二冊でだい
たい察しはつくようである。

   歴史教育のほうはこんなものだが、もう一つ、誰でも手軽に
利用できる情報源として、最新の百科辞典を覗いてみよう。な
るほど、これにもそれが記載されている。歴史関係書でなくと
も、たいていの百科辞典には説明がある。すべてに言及してい
るいとまはないので、多くに共通する記述をまとめると、
 A、文保元年、幕府は皇位継承のルールの確立を朝廷に勧めた。
 B、ルールの確立に向けて、その時点での状況をふまえた具体
   的な提案が幕府から示された。先に記した1・2・3がこ
   れにあたる。持明院・大覚寺両統は提案にそって話し合い
   を行なった。
 C、その結果、持明院統と大覚寺統による皇位の迭立が開始された。
このあたりが文保の和談の、現時点における「一般的な理解」
なのではなかろうか。疑り深い向きは論より証拠、ぜひお手近
な辞典で確認していただきたい。

   では、こうした一般的な理解は、一体どのような歴史研究に
基づいているのだろうか。今度はそれを調べてみよう。三人の
著名な中世史家
とその著書は、文保の和談をどう説明するであ
ろうか。ごく簡単にまとめてみよう。

 竜粛氏。今もなお最もすぐれた鎌倉時代通史とされる氏の『鎌
倉時代』(春秋社、一九五七年)は、AとBの1と3を記すが、
和談は行われず、Cは実現しなかったとする。

 村田正志氏。南北朝問題の第一人者村田氏は『南北朝論』(至
文堂、一九五九年)でBの1・2・3を記す。交渉は3につい
て難航し、和談は成立しなかったとしている。

 もう一人、黒田俊雄氏。「権門体制論」の提唱者である黒田氏
は『蒙古襲来』(中央公論社、一九六五年)で、AとBの1・2
・3を記す。ただし3はまとまらぬまま、うやむやになったと
している。

 三人の先学が説くところはかくの如くである。それぞれに差
異はあるようだが……。おや、おかしいな。どなたもCの実現
を言われていない
。しつこいようだが最新の教科書にも、文保
の和談→両統の迭立定まる、と書いてあるのだが。文保の和談
をテーマとした研究は最近ではあまりみられないから、この方々
の言及は今なお研究の最高水準を示しているはずである。なら
ば、先の「一般的な理解」の妥当性こそを、疑う余地があるの
ではないか。

 事ここに至ってはしかたない。気は進まないが原資料にあた
らざるを得ぬようである。筆者はここで、文保の和談の根本史
料たる『花園天皇日記』(以下単に『日記』と表記する)元亨元
年十月十三日条を読み直す。そしてこれをもとに、もう一度考
えてみよう。

 この日の記事を読んでまず気がつくことは、Bの2がどこに
も記されていない
ことである。2の取り決めの存在は根本史料
からは証明できない。やむなく他の史料を探してみると、『梅松
論』
の「皇位継承のこと」には「御在位の事においては、一の
御子後深草院、二の御子亀山院の両御子孫、十年を限りに打替
わり打替わり御治世あるべきよしはからひ申す間」と記され、
『日記』文保元年三月三十日条も「すでに十年の在位、天道神慮
悦ぶべし悦ぶべし、今かくのごとき(譲位の)沙汰に及ぶ、ま
た天のしからしむるなり」と在位十年を強調している。しかし
『梅松論』の記事は文保の和談をテーマにしたものではないし、
これらを根拠として2をいうのはいささか乱暴である。

 次に3だが、これは村田・黒田氏が言われるように合意せず
と記されている。天皇も皇太子も大覚寺統、という提案に持明
院統が反対したのは当然であろう。ところが翌文保二(一三一
八)年に持明院統の支柱であった伏見上皇が没するに及び、著
しく癸言力を増した後宇多上皇の強力な働きかけがあり、1と
3は実現するにいたる。天皇後醍醐・皇太子邦良親王ともに大
覚寺統なのだから、両統迭立が行なわれていないのは明らか
で、
これでは先学がCに言及されぬのももっともである。

 ではAはどうか。Aは竜氏・黒田氏が言われている。両氏の
理解の根拠には、『日記』の先の記事中の幕府使節の言葉「両御
流皇統断絶すべからざるの上は、御和談ありて、使節の往返を
止めらるべし」があるのだろう。

 「和談」という語には、@なごやかに談ずること、A和解する
こと、の二つの意味がある。@は和談をするその時に限定され
る行為であり、Aは和談後にも受け継がれる行為である。竜氏・
黒田氏はAを念頭に「両統は和解し、以後^幕府と協議するた
めの)使節を止めろ」
と解したに相違ない。しかし『日記』の
同日の記事には和談の語が他にも何度か使用されていて、花園
天皇が@の意で同語を使っているのは明らか
である。この発言
は「両統でよく語し合い、(当面は)使節を止めろ」と平易に解
すべきなのだ。使節云々はこの時に限られた注文であり、今後
は皇位の継承に関与しない、などとは幕府は全くいっていない。

 くわしくは拙著『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、一
九九五年)で述べたことであるが、承久の乱後、朝廷は皇位の
交代に際し、必ず幕府に承認を求めている。これに対し幕府は、
たいていは「朝廷のお考えどおりに」と応じていた。このこと
を考慮するならば、文保元年の一件は、代替り時にくり返され
た事例のうちのひとつ
にすぎない。

 仁治三(一二四二)年、朝廷は後鳥羽上皇の嫡孫忠成王の即
位を企てた。このときは幕府は「お考えどおりに」とはいわな
かった。忠成王の即位を、承久の乱の張本人たる後鳥羽上皇の
復権と受け止め、承認を与えなかったのである。しかも幕府は、
圧倒的な軍事力を背景に朝廷を個喝し、無理やり邦仁王を後嵯
峨天皇として即位させた。この事件から分かるように、皇位継
承時の朝幕のやりとりは、単なる儀礼とみるべきではない。
承を決定する真の権利を有していたのは他ならぬ幕府
であり、
だからこそ朝廷は、事ごとに幕府の意を確認せねばならなかっ
た。文保元年の一件でも事情は同様で、今後は両統だけで話し
合って決定して下さい、と幕府が突如方針を転換するとは到底
思えない。ゆえにAもまた正しい認識とはいい難い

 まとめよう。Bの2には根拠がない。Bの1と3が実現する
のは文保の和談の翌年である。Cは史実に反している。Aは史
料の誤読に基づく不当な理解である。つまり、文保の和談の説
明として、A・B・Cはすべて適当でない

 では文保の和談とは何か。二つの皇統の皇位争奪運動が激し
さを増す文保元年、幕府は使節を上洛させた。さしあたり両統
いずれが皇位に就いても構わぬ幕府は、両統の合議で譲位以下
のことを決めるよう通知した。両統は語し合い、これが史料上
では「文保の和談」と呼ばれたが、何一つ合意しなかった。実
はそれだけのことなのだ。

 文保の和談は、朝廷と幕府の間でくり返された皇位継承に関
しての一交渉にすぎない。たまたま花園天皇という特異な記主
の日記が遺され、さらにそれが正しく読まれなかったために、
文保年間の皇位交代は必要以上に注目された。文保の和談がご
くありふれた出来事にすぎなかったことが、一以上の簡単なまと
めからお分かりいただけたことと思う。

   したがって、教科書や百科事典での文保の和談の扱いは直ち
に糺されねばならない
。史料の誤読を訂正するのはもちろんで
あるが、それ以上に、文保の和談を取り上げる必要がそもそも
ない
ように思われる。とくに教科書においては、文保の和談に
費やすスペースがあるのなら、「承久の乱後、皇位の継承には、
幕府の同意が不可欠であった」
と明記した方がよほど有益では
ないか。

 冒頭に御登場願ったK子氏は先日某学会で報告者を務めたが、
この時つい「後醍醐天皇の建武政権はパロディだ」と口をすべ
らせ、まわりから「おれのメシのタネを奪う気か」とばかりに
批判の集中砲火を浴びたという。けれども私には、彼女の発言
を一笑に付すことはできそうにない。文保の和談時の朝廷と幕
府の関係をふまえてみると、後醍醐天皇の倒幕行動はあまりに
唐突な感じがする
からである。過去との脈絡において今日を捉
えることをせず、さしたる準備もなしに(何より自前の軍事力
がない)倒幕に突進するさまは、改革とか異形とか何やら耳に
心地よい言葉ではなく、みもふたもない「別の語」で形容した
方が適切であるように思う。この点で私は、『日記』元亨四年十
一月十四日条の花園上皇の意見
に全く賛成である。

 私は『中世朝廷訴訟の研究』で、訴訟行為を基軸とし、朝廷
のすがたを見直してみた。今後はさらに新しい視座の導入に努
めて研究を進めるつもりだが、案外とこれまでの常識に基づく
右の如き思いこみと非難の中にこそ、新しい朝廷像を構築する
ヒントが隠れているのではないか。常識の再検討とはなるほど
手あかにまみれた言葉であるが、「文保の和談」はその必要性と
有効性を、あらためて私に教えてくれた。

 もっとも、若い研究者の間にも「王権ファン」は思いのほか
多いので、前途はまことに多難ではあるが。