建長元年7月1日田口成蔵3071.95−24
成蔵なんて変な名前ですね。むろん「しげぞう」じゃありません。 もっと時代が下るけど、赤穴郡連なんて人がいて、妙な名前だなあ、 と思ったことがありますが。
7月2日薬師法 桜井宮は覚仁法親王。後鳥羽上皇皇子で、園城寺の人。修験道方 面で重要な人みたいです。あと後鳥羽上皇皇子で備前に流された頼 仁親王との関係ですね。
7月13日相良一族間の相論 相良氏は遠江の武士で、一説によると畠山重忠討伐に功があって 肥後国人吉庄を宛行われた、といいます。 相良長頼(蓮仏)が実質上の初代。命蓮と頼氏は長頼の子。頼重は 長頼の弟、宗頼の子。で、本文読んでみると、命蓮の養母が頼重の 母。そういう人間関係のようです。 (参)工藤敬一氏「肥後国人吉庄の成立と特質」 (熊本大学『文学部論叢』25)
7月20日順徳天皇の号を定む 佐渡院に「順『徳』」の名を贈った意味については 本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』終章(2)をご覧下さい。 私としては、もはや忠成王を担ぎ出そうとした九条道家の勢力は 逼塞し、後嵯峨上皇は余裕を持って順徳の称号を贈ったのではない か、と考えたいのですが。
7月20日幕府、周防与田保地頭朝貞と同保公文源尊との
所務相論を裁す朝貞は下毛野氏。京大下毛野系図に見える「朝利」は平宗盛、九条 兼実に仕えた人で、この人が周防をしきっていた重源から与田保地頭 に任命されるんですね。幕府が任命したのではない地頭職ということ で著名だそうです。で、朝利、文書の上では朝俊、の養子が藤原朝兼、 その子が朝貞。このころは与田氏と呼んでも良いと思うのですが、確 証はありません。 この相論は関連文書が豊富で、『大日本古文書』家わけ18 東大寺文書16のP188あたりから、まとめて史料を見ることが出 来ます。東大寺文書ではないものとしては、「鎌倉遺文」6317が あります。 (参)畠山聡氏「保に関する一考察」(『日本歴史』531 ’92) がたいへん参考になります。 今回収録を見送った史料として、東大寺文書第1部第24所収の2通 (6171.65−36−61 88p)があります。特に興味深いのは 朝俊が朝兼に譲状を書き、重源が袖に判を据えている文書の写しです。 機会があったらご覧下さい。
7月23日傀儡の相論 久遠寿量院は鎌倉に建てられた、4代将軍藤原頼経の持仏堂だそうです。 なるほど、このころの同院別当だと思われる教雅(また定雅)(今のとこ ろ未公開の『久遠寿量院別当次第』より)は、落ち目の九条道家に最後ま で奉仕した法性寺家(名家系。羽林系法性寺家もあり)の人です。 櫛田良洪氏『真言密教成立過程の研究』によると、同院の文書は住侶の 人間関係から東寺宝菩提院に入っていくらしい。宝菩提院は観智院と共に 現存する東寺の院家であるわけで、現在文書の調査が行われている真っ最 中ですよね。先の櫛田氏はご覧になっているらしい先の『別当次第』ほか の久遠寿量院関係の史料も、もうすぐ閲覧できるようになるのではないで しょうか。 ちなみに、『親玄僧正日記』で有名な親玄も、久遠寿量院別当に名を連 ねています(教雅の次の次)。
7月28日仁和寺道深法親王薨ず 道深法親王は後高倉院の皇子です。本来は南都の東南院で一生を送る筈 だったのでしょうが、承久の乱によって父の後高倉院が治天の君となり、 彼の生涯も大きく変化しました。親王宣下をうけて法親王となり、仁和寺 に入ったのです。 若狭国太良庄を東寺に寄進する、という場面くらいでしか一般にはなじ みのない方ではありますが、卒伝で生涯を辿ってみて下さい。 なお、8月是月条も参考になるかもしれません。
7月28日室町尼、高殿庄内梅黒名を譲渡 高殿庄については ○安田次郎氏「大和国高殿庄の領家」(『年報中世史研究』11) ○宮崎康充氏「大和国高殿庄「領主藤中納言」について」(『日本歴史』 502) が最新の研究成果なのですが、この梅黒名については言及がありません。 問題は本文中に出てくる「大炊御門三位」が一体誰なのか、なのですが、 『平戸記』寛元3年9月23日条(大日本史料5−19、111ページ)か ら、藤原宗明という耳慣れない人物であることが判明します。 この宗明は山科実教の子で、実は時明院基宗の子。基宗の孫が高殿庄の本家 である室町院のお母さん。うーん、世代があわないような気もするのですが。 梅黒名は室町尼から大炊御門三位後家へ、天王寺尼から少納言成行へ、と 伝領されます。室町尼はおそらくは室町女院の乳母であった民部卿局と同一 人なのでしょうが、出自はよく分かりません。持明院家の誰か、と考えるの が自然だと思われます。大炊御門三位後家と天王寺尼は同一人で、成行は宗 明の子である少納言成行に該当するのでしょう。(鎌倉遺文7361は少輔 公、と読んでますが、少納言と読む方が良いようです。)成行からどう伝領 されたのか、私は調べておりません。分かったらどうぞご教示下さい。
8月12日藤原顕嗣出家 顕嗣は姉小路顕朝などと近い出自の人です。五位蔵人にはなっていますが 弁官にはすすめなくて、あまり出世できなかった人です。彼の子供たちも顕 職に就くことなく、まもなく絶えてしまうようです。二条良実に仕えている ようなのですが、そのことと彼の停滞とは、どう関係するのでしょうか。 なお[花押彙纂]として収録した彼の花押のうち、年欠の厳島神社文書のも のがありますが、これは嘉禎3年から仁治元年までのもので、摂政は九条道 家か近衛兼経です。
8月14日比叡山衆徒蜂起 「最明寺文書」で幕府が尊覚入道親王に自重を求めているのが目を引きます。 この事件の責任をとって9月6日に座主道覚入道親王は辞任しており、尊覚が 座主になっているのです。ちなみに道覚は後鳥羽院の子で、尊覚は順徳院の子、 仁助法親王は土御門院の子です。 「尾張文書通覧」も面白いですね。幕府は京都の治安維持のために兵力を集 めています。
8月14日道覚入道親王と覚仁法親王、喧嘩 道覚と覚仁はともに後鳥羽院の子です。何か政治的な背景があるのでしょう か。それともただの兄弟喧嘩でしょうか。もっとも二人は母親が違うので、兄 弟という感覚は希薄だったでしょうね。
8月15日石清水放生会延引 「宮寺縁事抄」の「足枚」ですが、ぐにょっとした字を「枚」と読んで、「 ひら」のことだろうと解釈しました。すぷらったですね。
8月15日道元、月見 道元の面影を最も良く伝えるものとして知られるのがこの頂相です。ただ、目 の辺にそれとはっきり分かる後世の加筆があり、それが惜しまれます。
8月15日大中臣隆通卒 隆通は母親の縁で堂上平氏と関係があり、『平戸記』に出てくるようです。 また、妹の夫に藤原成長という人が見えますが、彼の屋敷を譲り受けたらしく、 二条烏丸のこの屋敷にも住んでいたようです。 なお彼の子供の一人が有名な通海権僧正で、通海については ○小島鉦作氏「大神宮法楽寺及び大神宮法楽舎の研究−権僧正通海の事蹟を通じ ての考察−」(『小島鉦作著作集第二巻.伊勢神宮史の研究』吉川弘文館.) に詳しく載っています。
8月16日藤原光俊出家 藤原光俊は光能の子。有名な葉室定嗣の兄の光俊ではありません。葉室光俊の 方は法名真観。歌人としてたいへん有名です。 こちらの光俊はおそらくは後高倉院に仕えていた人。それも、院が不遇であっ た承久の乱以前からの家司であろう、と思われます。このことについては拙著『 中世朝廷訴訟の研究』p64あたりをご覧下さい。後高倉院政が布かれていたと きにちょろっと顔を出しますが、その後はあまり政治的な行動をとっていなさそ うです。 もう一つ付け加えておくと、彼の母親は御家人である足立遠元です。まあ詳し くは卒伝で。
8月19日三条公房薨ず太政大臣公房が院司として発給した宣陽門院の令旨をコロタイプで 収録することに致しました。太政大臣が奉者なんて、他に例があるの かなあ?超豪華な文書であることは確かです。 この令旨ですが、史料編纂所の影写本だと「岩崎小弥太氏所蔵文書」 に収録されています。現在は静嘉堂文庫美術館の所蔵で、「古文書大 手鑑」と呼ばれています。戦後旧国宝に指定され、いまは重要文化財。 静嘉堂の主任学芸員の玉虫敏子氏によれば、江戸時代後期には既に現 在の装丁が為されているのでは、とのことでした。ともかく立派なも のです。歴代天皇以下有名な人の文書が多いのですが、どのようにし て作られたのかを考えねばなりません。 なお、尊勝・護法寺については大日本史料建保2年2月17日の条を 参照して下さい。入道平親範は平等・尊勝2寺を護法寺に併せて1寺と し、ここに天台宗の毘沙門堂門跡が誕生するのです。ですから、この令 旨の宛先「入道民部卿」も、平親範にあてられます。そして親範が承久 2年に没していること、公房の太政大臣在任期間から、文書は承久1年 もしくは2年のものと考えられるのです。 この親範、後に左大臣を贈られているんですね。普通、娘が国母にな った、とかの場合に見られる措置ですが、親範の子孫は絶えているので す。一体何故だろう?親範は宗教的に活動したらしいから、その関係か な?ご存じの方、どうか、ご教示下さい。
8月24日五壇法 延暦寺衆徒蜂起を鎮めるために、五壇法が行われます。朝廷首脳はど こまで本気だったのでしょうか。どう考えたって、祈ったからといって 天災ならともかく、人災がどうにかなる訳ないでしょうに。 そりゃあ時代が違うんだから、というのは簡単ですが、一つ気になる ことがあるのです。だいぶ時代は下りますが、101代天皇の称光天皇 が没するとき、病気平癒の祈りをみんなやりたがらないんですね。将軍 護持僧の錚々たる面々が逃げ回るわけです。天皇が死ぬのは間違いない、 ここで祈祷を引き受けたら、面目がつぶれることは免れない。そういう 我々からすると「ごく普通の感覚」が働いている。結局、如意寺満意( のち聖護院主)が貧乏くじをひき、案の定天皇が亡くなると「壇を破っ て」(こういう言い方するんですね)しょぼくれて壇所から出てくるん です(典拠は満済准后日記か建内記かです)。こういう例に接すると、 やっぱり彼らも醒めた目を持つことは持っていたんじゃないか、と思わず 疑ってしまうんです、私は。 ともあれ、この記事には五壇法をどうやるかが詳細に出ています。きち んと整理して活字化すれば、卒論くらいはすぐにでっち上げられます。え いやっと気合いいれれば、投稿論文にだってなります(笑)。記主が信寛であることは、本文を丁寧に読めば分かると思います。彼は のち深寛と名を変え、仁和寺五智院主となり、東寺二長者にまで累進しま す。生家は室町家、かつがつ公卿になる、羽林の家のようです。 興味深いことは彼が菩提院行遍と栄然僧都から法を受けていることです。 そしてこの両者から法を受けている有名人が、九条道家なのです(5−2 7,宝治2年12月18日条)。行遍と道家については9月4日、実賢卒 伝でもふれますが、特筆すべきは出雲僧都栄然の方で、彼と道家の法的関 係は非常に強固なようです。 そこで深寛の系図を見てみると、おっ、彼の兄の雅平は法性寺を名乗っ ているではないか、彼の姉妹は東山関白家の女房ではないか。何となく深 寛のいる政治的な環境が見えてくるような気がします。 五壇法で注目されることは表出に上げときましたので、ご覧下さい。分 からなかったのは「折灯銚」です。折り畳み式の提灯のようなものでしょ うか。ご存じの方、どうかご教示下さい。 個人的に面白かったのは、五壇それぞれにスポンサーが付くことですね。 全く知りませんでした。信寛の金剛夜叉壇の後援者は中院通成、後嵯峨上 皇の乳母である大納言二位、源親子さんが色々気を遣ってくれています。 大納言二位は色々な人にあてられていますが、親子さんがいいようです。 典拠は「弁内侍日記」80段に「大納言二位、こがの大臣のむすめ」とあ って、「こがの大臣」を源通親ととり、「尊卑分脈」と比較対照すると、 親子さんに行き当たります。 ほかに立預とか一連差なんていう名辞も気になります。 ほら、「五壇法の興行と貴族の経済的後援について」なんていう論文が 書きたくなってきませんか。
8月是日室町院、山前庄を道融僧正に ○伴瀬明美氏「鎌倉時代の女院領に関する新史料」(『史学雑誌』10 9−1)を参照のこと。 道融は安井門跡、西園寺公経の息。蓮花光院大僧正と言われた人です。 ある法流の流れは、 「道尊ー道円ー仁和寺道深ー道融ー仁和寺法助」ということになるそ うで、道融は道深と法助に挟まれるんですね。(仁和寺文書、御経蔵1 39函、「安井宮事」) 山前庄をもっていた道円は「不慮の次第」で門跡を召し放たれ、山前庄 への権益を失った。で、この建長元年8月段階で、安井門跡を継承した道 融に山前庄が与えられる。ここにですね、先の法系を考え併せると、道円 のあとに同庄を引き継いだのは、他ならぬ道深だったのではないか。だか ら、道深が7月28日に没した時点で、道融が申し入れをし、室町院もこ れを認めたんじゃないでしょうか。 室町院庁下文の人名比定の根拠なのですが、建長3年の室町院令旨を奉 じているのが藤原(勘解由小路)経光なので(伴瀬氏紹介史料)、第2位 の別当と年未詳院宣の奉者は経光だろう、と。問題は別当首座が誰か、と いうことですが ○権中納言であること ○経光(時に従二位)より上位の人間であること ○藤原氏であること が条件になります。そこで一人一人見ていくと、滋野井公光がいいのでは ないか。 ○公光の母方(持明院家)の従姉妹が室町院の母である。 ○公光の嫡子の実冬は建長2年と7年に室町院給を受けている。 という理由です。 なお、公光の母は従3位宗子、四条院の乳母だそうです。
9月2日甲佐社領の相論阿蘇文書は重要文化財であり、熊本大学図書館に所蔵されています。 そこで熊本大学の小川剛生先生にお願いして、9月12日の覚縁の状を 確認していただいたところ、確かに覚縁の裏花押があるそうです。とす れば、これは「沙汰未練書」に載る「挙状」のスタイルにピッタリです。 大日本史料では北条時頼が六波羅に挙した、といたしました。でも執 権の意を受けた人が六波羅にいうのに「便宜の時にご披露してくれ」と いうでしょうか?ぼく個人としては今ひとつ納得がいきません。 得宗領の所領を六波羅に訴えている実例は、「鎌倉遺文」23884 に見えます。ここで六波羅は、太良荘について三問三答を番えた後、こ れを鎌倉の長崎高綱に送っています。 この事例を勘案すると、覚縁は甲佐社ゆかりの人物ではないか。それで 甲佐社地頭代の訴えを六波羅に挙し申したのではないか。つまり、時頼が 覚縁を通じて、ではなく、地頭代官(山田五郎四郎)が覚縁を通じて、と 理解するのです。 あくまでも一つの考え方として、記しておきたいと思います。
なお、宝治合戦の際に、北条時頼のぼでぃーがーどとして「五郎四郎」 という北条氏家人が見えます。(『吾妻鏡』宝治元年五月二七日)あるい はこの人が山田五郎四郎なのかな、とも思うのですが、確証はありません。
9月4日実賢寂す実賢はあまり位の高くない貴族の出身で、三宝院流、金剛王院流の二つ の流れを受け継いだ人です。両流を伝授された人はそんなにいないような ので、彼の本質は地味な学僧であったと思われます。にもかかわらず彼が 様々な栄誉に輝いた一因は、安達景盛との出会いにあったようです。菩提 院行遍に入門を断られた景盛を弟子として迎え入れたのが実賢であり、感 激した景盛は師匠のために奔走、実賢は一躍宗門のボスになった、という のです。 行遍と実賢の歩みをみていくと、確かに彼らはライバルであったといえ ます。宣陽門院や九条道家を後援者とする行遍、安達景盛を後援者とする 実賢。そこに道家の権勢のかげりとか、安達氏の台頭とかを考え併せると、 実に面白い。三浦氏を滅ぼした宝治合戦の際の景盛の行動や三浦光村と前 将軍藤原頼経の関係、などとも繋がってきそうですね。 問題は行遍がどうして景盛を弟子にしなかったか、なのですが、もしか すると、高野山と伝法院の相論が関係するのかな、とも思います。行遍は 伝法院座主で、高野山僧徒と仲が悪い。たとえば大日本史料5−23,宝 治元年12月是月条等をご覧下さい。また景盛は高野の人ですよね。彼が 戦闘的な行動を示す高野山僧徒として一定の地位を占めていたと想定する と、行遍が景盛を敬遠せざるを得ない理由も分かるような気がします。 11月是月条も、実賢の寂と関係あるのでしょう。
9月6日良恵、東寺一長者・法務に何とはない記事なのですが・・。うーん。 法務、というのがありますよね。これは少なくとも室町時代になると、 東寺一長者が兼帯する僧職です。常識です。ところがですね、建長年間だ と、まだこの兼帯関係ができあがってないのかもしれないんだよなあ。 この話をする前に、「東寺長者補任」の話をしなくてはならない。どの 「補任」が一番良い本なのか。大日本史料5編はいままで「浅草文庫本」 を使っていたんです。ところが東寺観智院金剛蔵に所蔵されている「東寺 長者補任」が良さそうだぞ、ということになって、この巻からは観智院本 を使用することに致しました。同本については翻刻があります。 ○湯浅吉美氏「東寺観智院金剛蔵本『東寺長者補任』の翻刻」 (成田山仏教研究所 紀要 20、21、22号 ごく最近) それで、ですね。この本によりますと、三長者定親に「法務」と記され ているんです。で、良恵がこのとき法務になると、これ以後の定親は「権 法務」と。ふーん。三長者でも法務なのかあ。 「補任」の誤記かなあ、とも思ったのですが、本巻11月28日の記事 を見て下さい。ね、法務定親(この場合、厳密には権法務なのかな?)が でてくるでしょう?このへんのこと、ご存じの方、ご教示願えるでしょう か。それとも知らないのは私だけなのでしょうか?
9月17日少弐為頼、宗像庄三村安堵さる為頼は少弐氏庶流。宗像氏忠の妻、氏重の母である張氏(宋の人だそう です)の養子となり、譲与を受けた。で、氏重と相論。のち氏重後家や氏 重の子の氏遠・氏村と相論になります。 宗像社が刊行された『宗像大社文書』を見ると解説があります。また、 「訂正宗像大宮司系譜」が史料編纂所にありますので(請求番号2075 ー900)、ご覧下さい。
9月29日五智院仁教、土地を仁専に譲与醍醐寺文書に入ってますが、この五智院は仁和寺のそれです。院主は、 行守ー覚助ー仁教、となっており、覚助の名はこの譲り状にも見ることが 出来ます。譲与対象地の略図は醍醐寺文書に収録されています。ご覧下さ い。たしか大日本古文書でも採っているはずです。 なお、仁教の次代の院主は、同地の譲りを受けた仁専ではなく、五壇法 記の記主である信寛(のち深寛)です。このことを念頭に読み直してみる と、仁専は可愛い子なのでこの土地を譲る。「本院管領の仁」(これが信 寛なんですね)よ、取りあげないでやってね。そう書き記す仁教の思いが よく分かります。
10月12日最尋(道玄)、道覚より伝法灌物頂を受ける何とはないような記事ですが、それなりに意味がある。 というのは、最尋の師匠、言葉を換えると得度の戒師(この言い換えの根 拠はこの条に掲げた「諸寺院文書」です)は最守という人でした。普通、 伝法灌頂は得度の戒師から受けるのが常例だったわけです(そういう根拠 も同前)。ところが道覚は、最尋を最守のもとから、まあ言うなれば、奪 ったんですね。人の弟子をとって自分の弟子にし、自分には慈源と言う弟 子がいたにも関わらず、この最尋に跡を継がせた。この経緯は12月27 日条を見て下さい。 もうお分かりと思いますが、最尋が名前を変えているのは、そのへんの 経緯と関係があるんでしょうね。最守の弟子だったときは最尋と名乗り、 道覚の弟子になったので、道玄を名乗ったのでしょう。
10月25日大成就院灌頂大阿闍梨の聖増は法然の弟子として有名な隆寛の実子。 長吏といってももちろん三井寺のそれではなく、横川の長吏です。
10月29日慈実、出家道覚に見放された慈源が、自分の弟の出家の師を務めてます。 戒師はまた別なんですね、12月23日を見ると。 ここに出てくる慈胤は同月25日条の聖増の弟。隆寛の実子。
10月是日三島社うんぬん貞応以降新立荘園、ようするに承久乱後に勝手に立てた荘園は整理しな さい、という命令は、他でも僅かながら見ることが出来ます。早い例だと 仁治2年の官宣旨案に引用されています(「鎌」5808)。誰がこの命 令を下したんだろうなあ。綸旨がでてる、とあるから、後堀河かなあ。そ うなると、実質的な立案者は近衛家実か九条道家、おそらくは後者かなあ。 ただ、後代になると、この法令と後嵯峨上皇が結びつけられていくらしい です。これについては、 ○本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』附論「朝廷経済小考」注(52)、2 47ページを見て下さい。
11月3日庄四郎を地頭代に庄四郎は法名が道顕、実名は不明です。 あっ、もちろん庄が姓、四郎が通称です。庄四郎、姓欠ク、ではありませ ん。(うぷぷ。)
11月是月実深、醍醐寺座主を望む実深は「じつじん」と読むそうです。成賢の室に入り、報恩院憲深の法 を嗣いだ人です。三宝院流のうちの報恩院流第2世(流祖は憲深)。 当時、醍醐寺の座主は勝尊、実賢の嫡弟と目されていた人です。実深に してみれば、三宝院流の正統は成賢であり、成賢の教えを受けた憲深、も しくは自分こそが、という自負があったのでしょう。で、実力者である実 賢が寂すると、すぐさま動き出したのでしょうね。
12月5日源雅親没す源雅親なんてしらないから、卒伝もたいしたことないだろ、とたかをくく っていたら、あらえっさっさ。たいへんでした。儀式では大活躍だったんで すねえ。これだから公家は。 雅親の兄弟の雅清は、ごく短期間でしたが、後高倉院政で政治の表面に浮 かんできた人物です。(○本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』第3章(1)) でも雅親はしらなかったなあ。
12月18日祝部成茂70才の賀鳩の杖がでてきます。これについては「ここ」をご参照下さい。
12月20日菅原在嗣の課試文章道の話です。これについては言うまでもなく桃裕行先生の『上代学制 の研究』があるんですが、あくまでも「上代」でして。いかに制度が崩れて いったか、の『中世学制の研究』はないんですねえ。色々見てきたんだけど、 結局、課試の具体的な中身が分からない。「方略策に応じる」という言い方 をするんですが、落第することはないんでしょうか?あくまでも形式なのか な?そのわりには日野氏などを「儒家」と認識している例は室町中期にまで 残ってますしね。うーん、どなたかご教示下さい。
12月23日慈実、受戒慈実は慈源の弟子ですから、本来は道覚に受戒の師を頼むはずなのです。 ところが道覚は慈源を義絶し、最尋に青蓮院門跡を譲ってしまう。慈源も また、あてつけのように、道覚のあとを襲って天台座主になった尊覚に受 戒の師を頼むのです。なんか、えぐいですねえ。
12月27日道覚、青蓮院門跡を最尋に譲る道覚親王が道家の子の慈源を義絶し、二条良実の子の最尋に門跡を譲りま す。いうまでもなく当時道家は落ち目であり、道家に背いて幕府に通じた良 実は政治的地位を辛くも保ちました。道覚親王はこの辺のことを考慮し、最 尋をかなり無理して(10月12日条参照)譲り受け、そのうえで彼に門跡 を譲ったのではないでしょうか。あるいは二条良実の意向を重く見るべきな のでしょうか。ともかく、なかなかに興味深い一件です。
僧侶○天台【山】 青蓮院道覚入道親王 俗名朝仁 西山宮 後鳥羽院皇子 80代座主 梶井尊覚法親王 中山宮 順徳院皇子 81代座主 青蓮院最尋、のち道玄 十楽院 二条良実の子 最守 松殿基房の子 慈源 九条道家の子 慈実 後妙香院 真木野とも 九条道家の子 ○天台【寺】 円満院仁助法親王 土御門院皇子 54代長吏 覚仁法親王 桜井宮 後鳥羽院皇子 ○真言 御室道深法親王 金剛定院御室 後高倉院皇子 上乗院良恵 九条兼実息 上乗院道乗 後鳥羽院皇子頼仁親王の子 ○南都 尊勝院宗性 ばっかやろう。てめえのせいで俺の人生は・・・。