◎武士の給与

   鎌倉時代の武士、御家人とは、どのようなものだったのか。学問的厳密さには欠けるが、
この節では少し思考の枠を拡げて、武士像の再現に努めてみよう。

 疑問その一。御家人はいったい何人くらいいたのだろうか。恥ずかしい話だが、私は江戸
時代の武士のイメージ(たとえば「旗本八万騎」など)を強く持っていたためか、かなり多
くの御家人の存在を疑おうともしなかった。ところが実際に史料にあたってみると、元暦元
年の讃岐国で14人。建久7年の若狭国で33人。前者は国中の全御家人ではないらしいが、
同国で地頭が置かれた土地が20カ所余りなので、半分以上にはあたるだろう。伊予国では
確認できる地頭補任地が29カ所。御家人の数も当然その程度。1275年、六条八幡宮造
営のために課税された御家人の名簿が残っているが、とびぬけて多いのが武蔵国の84名、
あとは各国10名前後。全国で469名。こうしてみると御家人は一国で数十人しかいない
らしい。江戸時代の武士とはまるで違うようだ。これでは、軍記物語が勇ましく書き記すよ
うな「何万騎の軍勢」など、あり得るはずもない。

疑問その二。御家人はどのくらいの収入を得ていたのだろうか。承久の乱後におかれた新補
地頭については、給与の基準(新補率法)が定められている。田畑11町ごとに1町ずつ、
地頭が年貢を取得する地頭給田とする、田畑1反ごとに米5升ずつを加徴米として徴収、
山野河海からの収益の半分、であった。

 以下はかなり大雑把な話になるのだが、では右の収入は現在の感覚でいうとどれ程になるの
だろう?まず基本的には田積であるが、中世では1町=10反=3600歩、であり、1歩は
6尺四方、1尺=0、303mだから、
1歩=(0、303×6)×(0、303×6)=3、3平方m
1反=3,3×360=1200平方m
1町=1200×10=12000平方m=120a=1、2ha
である。武士の館は方一町、1町=1、2haといわれても下町育ちの筆者には実感がわかな
いが、1歩=1坪=たたみ2畳、1町は3600坪、といわれると仰天してしまう。

 さて荘園の規模であるが、高名な備後国太田荘は600町、京都郊外の上桂荘は15町、と
著しい差異がある。御家人がどの程度の規模の荘園を拠点としていたかは一概にはいえないが、
ここでは有名な薩摩国入来院を例にとってみよう。宝治合戦で功績をあげた相模国の渋谷光重の
五男定心は入来院を与えられ、この地を一所懸命の本貫として入来院氏を名乗った。この荘園が
ほぼ200町であった。

 入来院に新補率法を適用するとどうなるか。まず200×1/11=18、入来院氏は18町の
地頭給田を与えられる。年貢関係史料の豊かな荘園領主高野山をみると1反あたり4斗ほどの米が
年貢とされており(なお1反あたりの収穫量は1石前後)、仮にこれを援用すると、地頭給田18
町からは18×10×4=720斗=72石の米が税として上納される。また、加徴米は、200町
=2000反、5升×2000=10000升=1000斗=100石となる。合わせて72+100
=172石の収入である。

 話は益々怪しくなるが、おつきあい願おう。一般に「お米1キロ=5、5合」という言い方がある
そうだし、米俵一俵=60キロ=3、5斗であるという。両者はおおよそ合致するので一応前者を
基準とする。

 さて、現在我々が食べるお米は10キロで6000円ほどである。つまり10キロ=5、5×10
=5、5升、5、5升が6000円ほどということになり、だいたい1升が1000円、1石が
10万円
という(机上の)計算になる。すると200町の荘園の地頭渋谷氏は、田から1720万円
の収入
があることになる。そして、これに山野河海の収穫物が加えられる。

    蛇足になるが、話のついでに公家についても、武士との対照ということで若干触れておこう。
当時の朝廷経済に詳しい本郷恵子氏によれば、藤原定家クラスの中級貴族を見たところ、一度に
何とか工面できる金額が200貫ほど、年収はそのほぼ10倍の2000貫くらいではないかと
いう。米1石の値段には相当な幅がある(1312年若狭で416文、1335年上総で2180文)
が、荘園領主は1石=1貫(1000文)で安定させようとしていたらしいので、これを基準に
する。すると定家の年収は2000貫=2000石=2億円、となる。少し多いような気もするが、
ともあれ、「金が無い、金が無い」と頻繁に日記に書くわりには、まだまだ貴族は十分に富裕なの
である。

 (この一文は放送大学教育振興会の許可を得て、『日本の中世』から抜粋したものである。)