得宗って何だ

 北条義時から高時にいたる北条宗家の一流を歴史研究者は「得宗」とよぶ。高校の授業でも
学習する「得宗専制」の概念がこれに拠っているのは言うまでもない。たしかに南北朝時代、
宗家の所領を「得宗領」と呼んでいる事例は数多い。ではこの耳慣れぬ「得宗」とは何だろう。

 そこで実際に調べてみると、どうもはかばかしくないのである。ある書物は北条義時の法名
だという。あるものは泰時のそれだという。ところが筆者のつたない経験からすると、「得」
などという字が法名に使用されている例はあまり見たことがない。だいたい歴史辞典には義時
の法名は「観海」、泰時は「観阿」とある。一体どうなっているのだろうか?

北条氏研究の若手の第一人者、細川重男さんに聞いてみた。「ああ、得宗ですか。
南北朝時代の東寺百合文書に得宗は義時の法名である、と明示したものがあるんですよ。
ただ、本当に『得宗、とくそう』だったのか、疑問ですね。というのは、軍記物として名高い
『梅松論』に『北条宗家を徳崇という』と書いてあるんです。そこでぼくはピンときた
んですが、北条時頼の法名が道崇、一代とんで貞時が崇演、高時が崇鑑。これは幕府が禅宗を
重んじるようになってからの、いわば禅宗風の法名ですよね。しかもみな『崇』の字がつく。
とすれば、北条宗家の誰かが義時を崇敬し、彼に禅宗風の法名を贈ったのではないか。それ
が『徳崇』だったのではないでしょうか。
なにしろ北条氏にとって義時というのは特別な人
なんです。承久の乱で朝廷を打ち破ったからでしょうかね。彼らにとって『わが家のご先祖様』
といえば、時政じゃなくて、義時なんですね。」

なるほど。漢和辞典によると「崇」を「すう」と読むのは慣用であって、本来の音は「しゅう」。
また「宗」は「天台宗」の如く「しゅう」と読まれていた。すると「徳崇」は「とくしゅう」
で、それで後に「得宗」という字を充てられたのかもしれない。

  細川さんの説は魅力的だが、果たしてそれが学問的に妥当か否か。判定は今後の研究に委ねる
ほかはない。しかし頻用される「得宗専制」の「得宗」でも出典が定かではないのだから、中世
史にはまだまだ明らかにすべきことが多そうである。

(この一文は放送大学教育振興会の許可を得て、『日本の中世』から抜粋したものである。)