『大日本古文書 家わけ第十八 東大寺文書之二十五』

東大寺図書館架蔵東大寺未成巻文書1-24-550から同733および、それに接続・セットとなる他架、寺外所在文書を含め、二三二点を収めた。時代は奈良時代から江戸前期に及ぶ。1-24架(雑荘)は第二十二冊から続く、この間の本所報での出版物紹介でも述べたように多種多様な文書がなかば順不同で混在する。1-24架末尾は756であり、その全体像が判明しつつあるので、ごくごく粗い解説を行う。

(一)

 1-24以前の1-1から23までは、荘園・末寺ごとの分類が施され、後半にゆくに従い、分類単位内の文書点数が少なくなる傾向があった。1-24は、独立した分類単位とするには至らない文書点数の少ないものの集まりとして設定されたと推測される。大和国内諸荘園・山城光明山寺・紀伊木本荘・下野薬師寺・備前野田荘・備前久富三楽両名・周防宮野荘などがそれで、番号の若い部分に比較的集まっている。

 また複数の荘園記事があるためにこれ以前の架に分類しにくく便宜的にここに収めたと思われるものもある。典型は鎌倉後期の興福寺造営土打・段米役に関わる史料である。

 それ以降の後半は、荘園関係と思われるものの荘園名不明あったものが、ほぼ時代・荘園別を考慮せずに混在している状態である。

 その中には、本来、1-23以前に分類されるべきものが少なくない。目立つものとしては、蒲御厨・周防国衙領などがある。室町中期(文安~寬正)の戒壇院油倉関係文書も多い印象がある。無年号や断簡、当然ながら荘園名など無記載のもの、また読解が容易でない書状が多い。これらは一九七〇年代以後の自治体史によって、多くが帰属すべき荘園関係文書として紹介されているものが多く、今回の編纂もその達成によっているが翻刻・年次比定などより精確となるよう心がけた。

 この後半部分には平安時代の大和諸荘文書が比較的に目立つ。『平安遺文』未収のものも多く、貴重ではあるが、無年号かつ難解なものが少なくない。東大寺文書中にはここだけしかない荘園のものもあって、いわば木簡分析に近い困難さを伴うと思われる。今後の丁寧な検討が望まれる。

 さらに末尾にいたると明らかに形状で分類した形跡もあって、次冊の掲載予定の文書はほとんどが袋綴装冊子体となる。

 おそらく、1-24後半と次の1-25(雑)は、当初は一旦保留して、改めて検討を加えて適切に配置し直す心積もりの「固まり」だったのだろう。ただし諸事情によりそのまま凍結されたものと推測される。一万点以上におよぶ雑多な文書群である未成巻文書にあっては、やむを得ない事態であるが、そもそも大正時代に中村直勝氏が整理に着手した時点で、それまでの長い時間の経過中に、甚大な原状破壊が行われた故とも思われる。

 その意味では、『大日本古文書』編纂は整理作業を継承しているとも言える訳で、中村整理以後の研究成果の上に募って、さらに精査してその完成に近づいていることになる。蝸牛のごとき遅さではあるが、本編纂事業の意義がここに見いだせようか。

 なお、この「再整理作業」を進める上で、史料編纂所の古文書目録ユニオンカタログデータベース・古文書フルテキストデータベースは不可欠であった。データベース導入以前の編纂担当者の手書きカードでは果たし得ないデータ量と処理速度によって、効率的な内容判定が達成できたからである。もちろんそこにいたるコンテンツの拡充は編纂と平行して編纂担当者が行ってきたものでもあるが、システムを維持する本所情報支援室および所外協力企業にはこの場を借りて謝意を表するものである。

(二)

 次にこれまでの史料集で未刊行のものを中心にいくつかを選んで、時代順で内容を紹介する。

■ 大和春日荘(二四一八号)

 寛弘九年(一〇一二)東大寺前別当雅慶書状の一一点で、すでに赤松俊秀「東大寺領大和国春日荘について」(『古代中世社会経済史研究』法藏館、二〇一二年)や『平安遺文』にもほとんど掲載済みのものであるが、わずかだが新規翻刻や新たな接続復元があり、また日付不詳・宛所不詳については、赤松論文も参考に内容から比定を試み、それに基づき日付順に配列することで、利用の便とした。

 免田群としての東大寺領春日荘は、雅慶の院家領今木荘の中にあって、両荘で係争地をめぐる相論が発生した。当初、両者は、現地の郡司・刀祢を交えて問題解決を試みたようだが、途中から東大寺側が朝廷に訴え出たと考えられる。実際には東大寺からの愁状や朝廷からの裁許文書があったのだろうが、現在それらは残っていない。そのため詳細は不明である。ただ本書状を丁寧に読み込むことで、この時期の土地相論の解決方法を考察することも可能だろう。また係争地は本来菟足神社の領地で雅慶に寄進されたことから、菟足神社社司が神祇官に訴え出たとおぼしい記述もあり、より多くの情報を引き出せるように感じられる。

 相論相手でもある東大寺別当宛のものが多く、そのため東大寺文書に残されたと考えられるが、宛所から仲裁役の朝廷廷臣宛であることが明らかなもの一点、内容よりそう判断すべきもの三点があって困惑する。あるいは仲裁役の廷臣から相論相手東大寺別当に渡された可能性もあろうか。

■ 山城玉井荘(二四一一・二三八八号)

 二つの書状の発給者である善算は、天喜年間(一〇五〇年代)の東大寺別当醍醐寺僧覚源のもとで三綱都維那として寺内の要職を勤めた僧侶。東大寺文書中の封戸関係文書(返抄・書状)などの差出として見える。善算の草名は難読であるが、関係文書を参考に判読したものである。

 二三八八号に「当国守御書代山城介」とあること、そしてやや時期に難があるが年未詳四月十九日付善算申状(1-25-65)で、善算が「玉井荘」案件を取り扱っていることから、本荘に比定した。

 内容は、湖江殿荘と橘荘の寄人と玉井荘との相論である。本冊掲載以外の関連文書も含め全体に目を通すと、両寄人は東大寺別当から返抄を受け取っていることを根拠に、玉井荘内田地の請負の事実を主張した。しかし玉井荘現地荘司はこれを否定した。両荘荘園領主は「卿殿」「弁殿」と呼ばれる廷臣であり、ことは朝廷に持ち込まれ、実検のため官使が現地に下されたが寄人が乱暴に及んだ、という筋書きらしい。

 別当覚源在任期間の東大寺文書は残存数が恵まれる。前述の封戸関係以外にも、伊賀黒田荘・美濃大井荘・山城玉井荘関係があり、さらに寺内法会経営文書(注文・切符など)も見え、多彩である。本来、業務完了後に廃棄された可能性が高いものも残されたと見るべきで、その関係でこのふたつの文書も残ったものであろう。いわば別当覚源の執行部手元文書となる。覚源が寺外別当であったことが関係しているかもしれない。

■ 近江愛智荘(二四九八号)

 永承七年(一〇五二)と翌年の坪付注進状である。『平安遺文』掲載済みで、さらに坂本賞三『日本王朝国家体制論』第一章第二節(東京大学出版会、一九七二年)で接続復元も果たしている。本冊ではより原本のレイアウトを活かした組みとすること、合点(朱・墨)も記載すること、読みの修正などで再現性を高めるよう心がけた。

 この文書の特徴は複数の筆跡がある点で、これについてもすでに坂本論文で、元興寺・国守・国衙田所、そして元興寺、という文書の移動と利用を反映していることが指摘されている。按文では、墨の重なり順、余白書き込みの可能性などを勘案して、筆跡の順は説明したが、おおよそ坂本論文の理解と一致する。なお坂本論文は、(一)号の作人名の細字朱書を元興寺側の筆とするものの、朱書は国衙、墨書は元興寺という原則を想定すると別の解釈の余地があるのかもしれない。

■ 大和広岡郷(二四〇三号)

 寛喜元年(一二二九)訴人東大寺領手搔(転害)郷民と、論人興福寺一乗院領広岡郷民との相論文書である。手搔(転害)郷は現在の手貝町あたりで東大寺境内西側に隣接する。一方、広岡郷はさらにその西側に隣接し現在の法蓮町あたりである。

 この文書は、その大変個性的な筆跡から年預五師祐承による案と土代と判明する(古文書手鑑楢のくち葉文書)。同筆の案・土代としては、他に『大日本古文書東大寺文書』既刊一八六一・一四八一・一一九二号にその可能性がある。 祐承の筆跡は、通常の文字の崩しとは異なる個性的なもので、判読に慣れを要する。加えて本号文書は虫損が激しいばかりか、堅牢性を優先した近年の料紙修補繕いにより、さらに判読が困難となってしまった。したがって今後の研究によっては、さらに精確な読みが可能となる余地も多分に残している。

 この相論の関連文書は他に(寛喜元年?)四月十三日東大寺年預五師某書状(4-142、これも祐承筆)があるだけで、それも断片的な欠損文書のため、そもそもなにが争点であるかさえわかりにくい。とりあえずのたたき台として、一案を提示する。

 この地域を流れる佐保川流域は東大寺領河上荘があって、その作人には興福寺領住人等もおり、広岡郷郷民も含まれていた。争点は広岡郷民が負担する水利利用料であり、広岡側は「三升米」を進納したので利用のための義務を果たしたとするのに対して、手搔側はそれだけでなく「盛井料酒」をも要求した。広岡が拒否したために、対抗措置として手搔側は用水口を閉鎖し、かつ東大寺に広岡は違法であると訴えた。自領領民を支持しようとする東大寺に不服な広岡は、興福寺公文所での審議を求めるが、東大寺はそれを阻もうとした。

■ 興福寺土打・段米関係大和諸荘(二四一九・二四四二号)

 鎌倉後期大和では、興福寺による堂舎再建用途として課される土打人夫役と段米が問題となっていた。大和に多くの荘園を領する東大寺はその免除に苦慮しており、前述の通り1-24架には関係文書がある。本号はその一部である。

 正応二年(一二八九)の二四一九号は、散逸していた第二紙との接続復元をしたことで、年号と櫟本荘の百姓申状であることが確定できた。

 興福寺に対して土打役負担を約束してしまった荘民は、それを正直に領主東大寺に伝え弁明をする。すなわち、現地での執拗な興福寺使者の要求に屈せざるを得なかったこと、また直接、東大寺に赴くべきだが、興福寺使者の対応に「くたびれ」、やむを得ず書面ですませたことを詫びている。その上で「百姓安堵」できるように取りはからって下さい、と末尾をしめ、さらに追而書で、「現地での興福寺の厳しい催促はとてもやりきれない」と泣き落としに及ぶ。免除のために東大寺は、興福寺や朝廷宛に様々な書面をもって交渉・訴願をしている。その背景には、領主としての財源保全ということもあるが、領主たるもの、こうした荘園現地の声に応える責任があるという事情もあっただろう。

 嘉元四年(一三〇六)の二四四二号は、役を課す当事者である興福寺大乗院・一乗院への申し入れの草案(土代)であり、紙背側が第一次草案で推敲のための抹消と書き込みが激しい。表は実際に使用されたものの下書きである。なおこの時は、土打役問題だけでなく、一乗院領住民による東大寺領大和小東荘年貢対捍問題もあって、その記述もある。土打役は、紙背での加筆内容がほぼ表側にもあるが、小東荘は全面改定となっている。書きぶりの大幅な変更の理由が気になるところではある。

 ただこの直接交渉はうまくいかず結局、東大寺は朝廷に訴え出ることになった。それが二四三六号である(『鎌倉遺文』掲載済み)。これも表文書・紙背文書があって、紙背文書は年預五師円信書状(正文)で、朝廷側の窓口の公卿(造東大寺長官)は一筋縄ではいかない曲者であるので、朝廷の事情に詳しい東大寺別当聖忠側で東大寺衆徒申状などの下書きを書いて、こちらに送ってほしい、との依頼である。裏側はそれに応じて、別当側が書状の紙背に草案を書いたものであろう。

■ 山城銭司荘(二三八七・二四八二号)

 東大寺尊勝院領荘園で、正応元(一二八八)~五年、延慶三年(一三一〇)頃の二群が、筒井寛秀氏所蔵と1-24の中に分散して伝存する。すでに『賀茂町史』に翻刻はあるが年未詳とされており、今回年次を正応五年に比定したのであえて触れる。

 関連文書によって経緯を説明すると、ある笠置寺僧が買った荘内田畠につき相論が発生、その相論相手に領家東大寺尊勝院が領有権を認めてしまう。正応二年に笠置寺は寺僧の代わって、東大寺惣寺に対して尊勝院の決定を取り消させるよう要求した訴え出た。その時点の笠置寺側の担当者は目代定算であった。

 本冊掲載の文書二点は共に差出は笠置寺一和尚永盛で、かつ二三八七号に、訴訟が開始され「両三年」経過したがいまだ解決していないとあるから、訴訟開始の正応二年から三年後の正応五年に比定した。二四八二号は、笠置寺の苛立ちが吐露されている。すわなち、四月には、裁許が出ないなら東大寺八幡宮法華八講を欠席すると抗議したところ、東大寺より出席したら速やかに解決のために動くといわれそれを信じて勤仕した。にもかかわらず、十月になっても音沙汰なし。もはや、本末関係を解消する。当然ながら秋の八講も参加しない、と。

 なお前冊二四冊第二二一九号は正応五年に比定したが、目代定算が差出であるから、正応二年に改める。

■ 大仏殿燈油聖関係大和東喜殿荘(二四六一・二・五号・二三七三・二四六三号)

 大仏殿常燈のための燈油料を調達するのは本来、御油目代の役目であったが、鎌倉中期から燈油聖による勧進行為その他で賄われるようなり、免田が所領として設定された。燈油聖関連文書は1-17架(『大日本古文書東大寺文書之二十一』)に集められているが、そこから漏れたものが本冊にはある。

 二四六一・二・五号は、永仁三(一二九五)・四・五年の作人からの納帳(上納帳簿記録)である。もっとも詳細なのは永仁三年のもので、筆跡から第一次(面積・地主・作人)、第二次(納入米高)、第三次(地主・作人の交替。付加情報)などに区別ができる。第一・二次は永仁三年段階で、第三次は永仁四年以降と思われる。永仁四年納帳は、地主・面積・作人・納入代銭高と時期の記載で、ほとんど同内容だが、納入が御油目代被官の出納である場合は、その旨を記しているのが異なる。永仁五年納帳での記載は納入代銭高と作人だけとなり、納入状況はかなり悪くなっている。ここでも出納への納入について言及する。

 この時期に比定される燈油聖宛の東喜殿荘沙汰人の書状が二三七三号である。燈油目代系の出納が本来の取り分を超えて作人から米を取っているために、燈油聖分の納銭が減少している状況を述べている。また前述の納帳に見える作人についての言及がある。沙汰人は照合作業用に「御納所の御引付の案文」の下付を求めているなど、前述の帳簿との関連性が明白である。三点の帳簿は、ここで要求された「引付」そのものないし、それに類するものであろう。

 なお納帳に名前の見える二人の作人(鶴熊三郎・新三郎)の押書が、既刊分の一五八三号にあって、いずれも出納側に上納済みであることを報告する。鶴熊三郎分については、同様の内容が今回の納帳にも見える。押書については未来のことを約束する場合もあるが、これらは明らかに過去の事実の確認書(念書)である。蛇足であるが触れておく。

 二四六三号は時期が下る南北朝期のものである。内容は、東喜殿荘の地主・百姓による未進が累積されているため、東大寺惣寺がその解決を取り組むことになり、燈油納所に協力して現地の小山下司が百姓らに催促することを要求している。

 時期比定に誤りがあった。小山下司宛の文書は既刊二十一冊に至徳年間(一三八四~八六)のものが複数あり、これによって南北朝期後期に比定した。しかし、内容的には文和二年(一三五二)の大仏殿燈油料所未進押領人交名(『大日本古文書東大寺文書別集一』一〇九号)こそ合致するので、同年に修正する。これにより本号の差出である燈油納所は燈油聖性恵となる。

 この文和二年の未進交名によれば、建武五年から一五年間未進累積状態にあり、本冊二四一二号はその期間中康永三年分の進納状況を示す。数値に概ね矛盾はないことが確認される。

■ 御油目代関連大和高殿荘(二四九五号)

 燈油聖の説明でのべたように、平安時代以来御油目代が東大寺の燈油業務を扱ったきた。燈油聖が登場した後も、御油目代の活動は見えており、鎌倉後期から南北朝期は併存状態にあったと考えられる。

 二四九五号は、二点の文書が継がれたもので、(一)紙背の勘返状は、料所高殿荘につき、東大寺別当に朝廷への提訴をお願いする御油目代正文で、まずは相論側領主の興福寺東北院に申し入れてからとの御油目代回答が書き込まれている。そして(一)表は、別当からの要求を入れて、現地への違乱停止の下知をした旨の東北院の書状の写である。おそらく紙背の文書を返す際に、別当側で書き込んだものであろう。

 (二)は東大寺別当房官宛の御油目代の書状案で、(一)と関連する内容である。これを、元亨二年(一三二二)に比定したのは誤りで、翌元亨三年に修正する。本文中に「去年十一月之比」に東北院に伝えた結果、下知がだされたとある点を見落としたためである。その下知にも関わらず解決しなかったため、再度別当から東北院に申し入れてほしいと要求している。

■ 戒壇油倉関係(二四七二・二四七四・二三五八号他)

 本冊には室町中期の時期の戒壇院油倉の文書が多い。『静岡県史』翻刻刊行済の遠江蒲御厨関係文書はその代表である。未翻刻では、播磨大部荘関係があって、領家方政所から荘内井料について公文方政所への連絡(二四七二号)、影響力のあった守護山名被官垣屋氏よりの礼状(二四七四号)などがある。

 その他、幕府奉行人の飯尾貞元が油倉より借り入れをしている二三六〇号は、周防国衙領などの年貢を資本とした油倉の金融活動に関わる。なお年行事仙通書状(二三七八号)は、前欠部分の所在は確認したものの、編者の準備不足により翻刻が適わなかった。前欠部と合わせると、和与米のことで東大寺側と相論があったが解決に至ったことがわかる。また差出は周防阿弥陀寺の年行事と見てよいだろう。

■ 東大寺八幡宮二季講問結解状(二四九三号)

 永正五年(一五〇八)より永禄六年(一五六三)までの東大寺八幡宮での二季講問結解状(決算書)である。すでに『山口県史』に翻刻もあるが、現在散逸している合計四点分の断簡を復元し補った部分がある。

 右端にもと題籤軸があったと考えられ、料紙を順次左側に追加する方式であった。つまり通常の左端から右方向の巻きとは逆の右端から左方向で巻き込まれていたことになる。順次追加するためには合理的な方法である。担当の学侶年預交代によって、筆跡の変化が確認される。

 本行事は、夏と秋(ないし春と冬)の年二回学侶方主催で法華経を講問(質疑による修学行為)するものである。ただし本号によれば実際には年一回しかないこともあった。開始の永正五年はその三月に講堂とその廻りの三面僧房が焼失する大火があった。これ以前も同様の結解状があったであろうが、その際に焼失したものだろう。

 財源は「地子方」・長洲荘間方・周防仁井令の年貢であり、「地子方」は学侶方領有のおそらくは東大寺近隣の零細な田畠・屋敷の地子収入を管理する納所をさす。前二者の上納額にあまり変化はないが、仁井令は天文二十年代(一五五〇年代前半)以後に大幅に減額し、中断期間もある。

■ 周防国衙領(二四八四号)

 1-5架周防国衙領から漏れた文書が1-24には多い。本号はすでに『山口県史』に年未詳の年預五師某書状案として収められるものだが、筆跡が永正二年(一五〇五)の年預五師秀海と一致すること、本文中の周防椹野荘の返還については、永正六年に周防の大内氏と東大寺の交渉が確認されること(『大日本史料』九編第一冊九六〇頁)などから、永正六年の年預五師秀海の書状案とした。大内と周防国衙領押領により同五年十二月に東大寺堂舎閉門のあったこととその後の交渉は「実隆公記」で知られるが、それを補う文書である。

■ 天正六年大仏殿左手鋳造関係(二五〇八号)

 周知のように永禄十年(一五六七)十月に松永久秀方と三好三人衆方との合戦に巻き込まれ、大仏は焼失した。再生事業が着手されたものの長く仮修理の状態に留まった。遅々として再鋳造が進まない中、途中、天正六(一五七八)・八年に左右の手が再鋳造された(前田泰次『東大寺大仏の研究』岩波書店、一九九七年)。

 その関連文書は東大寺文書中の1-24・1-25・3-10架にある。鋳物師・番匠・鍛冶・杣工・人夫へ支給された代米を請求した伝票の類いである。実際には差出人が立替支給した分を請求したものと推測される。

 本二五〇八号はそのひとつで、三五点の切紙からなる。鋳物師・人夫方のもので占められ、差出人は鋳物師棟梁の吹屋(釜屋とも)弥左衛門久重と、その手下(加用人)である教蔵(「キウ」「キやウ」もか)であり、本文には、鋳物師・人夫名・代米高・日付などが記載される。支給代米の合計記載には朱合点があるが、おそらく、宛先である上生院(浄実)によるもので、差出人への支払い済み確認を示す。浄実は大仏殿燈油納所(3-10-858)であったから、同納所の管理する米から下行したものと推測される。

 本号には、一点だけ鍛冶方についてのもの(一七)があり、その差出は寺内組織のひとつ穀屋、宛先は奉行人衆である。おそらく上生院(浄実)は奉行人衆のひとりでもあったのだろう。鋳物師方と鍛冶方との違いは不明である。

 また三五点のほとんどは無年号であるために、天正六年ではなく八年の可能性も多分に残すものの、今回は現状の一括文書が原状に由来するであろうと判断し、天正六年の年紀のみあることから、それに従った。次冊には番匠方関連の文書を掲載する予定であるから、先程の各方間の違いとあわせて、年号比定も改めて課題となる。

■ 官家方関係(二五一〇号)

 「官家」は「高貴な家」という意味であり、安土桃山期・江戸時代の東大寺史料には「官家沙汰人」の史料がある。幕府以下の武家とのつきあい(贈答など)を担当する渉外の役目であった。本号は天正十七年(一五八九)の結解状(勘定書)で「官家方」の初見史料である。帳簿には関白秀吉、郡山城主豊臣秀長への贈答支出などの記載がある。秀長家臣の名前も見えている。この時期の豊臣方による大和支配を考える素材ともなろう。ただ、いくつかは人物比定を果たせなかった。今後の研究によって明らかとなることを期したい。また各方面に派遣された使者の宿泊費記載があるのも興味深い。

 なお発給者は沙汰人衆六名である。沙汰人衆という呼称は、天文年間終わり頃から見え、天正年間には周防国衙領関係文書で多数確認される。これらの沙汰人衆が官家方沙汰人衆とどう関わるのかは今後の課題であろう。

(三)

 以上、平安から安土桃山期の文書のいくつかを紹介した。なお本冊では、従来の悉皆採録方式からの変更があったことを断っておく。今回の冊では、江戸時代の帳簿類で省略したものがある。具体的には河上八箇名算勘帳(1-24-711~732)である。比較的内容が単純であり、かつ古文書ユニオンカタログデータベースで影写本画像が公開され、近世史研究者にとって判読は容易と判断した。一部利用者には不便をかけることとなるが、難解な中世文書の翻刻を優先したためであり、ご理解賜りたい。

 また今回の内容紹介中でも刊本の修正は提示したが、他に気づいたものを追加しておく。二四一三号大和権守在原貞広書状は、「応保二年の可能性もある」としたが、単純なミスであり撤回する。二四二一号興福寺沙汰衆等書状は、文正元年のものであろう(3-12-229参照)。多数の誤りは編纂担当者の不注意によるものであり、利用者に迷惑をかけたことをお詫びするとともに、今後こうしたことのないように努めたい。

 最後に重ねての案内にはなるが、『大日本古文書東大寺文書』は、史料編纂所の関連データベースを併用することで、その研究資源としての効能は発揮される。そのためのデータベース整備にも心がけており、データベースの利用をお願いしたい。なお本冊は、JSPS18H03583による調査成果を反映している。

(例言四頁、目次一八頁、本文三一六頁、花押一覧九葉、本体価格九、六〇〇円) 担当者 遠藤基郞 >