史料に基づいた日本史の研究
 史料編纂所は、古代から明治維新に及ぶ時期の、国内外の日本史の史料を研究し、また史料集編纂を行う研究所です。
教科書に史料編纂所の名が見える
 高校の日本史教科書をみると、「小右記」、「倭寇図巻」、土佐光信、刀狩令、「老農夜話」、レザノフ、塙保己一・和学講談所、久米邦武など、私達の研究所を紹介する手掛りになる人物や史料が載っています。
 史料編纂所の前身は、1869(明治2)年、塙保己一が1793(寛政5)年に創設した和学講談所の跡を利用して始められた明治新政府の修史事業です。三条実美がその最初の総裁に任じられました。そして、漢文体正史の編纂が進められました。
 たまたま手許にあった1994年版の実教出版の『日本史』には、旧課程のものですが、明治中期以降の人文・社会科学の発展の項で、「東京大学にまねかれたリースによってランケ風の実証史学がもたらされ、日本史の重野安繹や久米邦武、(中略)らがあらわれた」と書かれています。最近の教科書にも、科学的研究が伝統的な思想と衝突することもあり、1891(明治24)年、帝国大学教授久米邦武が「神道は祭天の古俗」と論じて、翌年に職を追われる事件がおきたことが記されています。
 久米邦武(1839〜1931)は、明治時代、重野安繹(1827〜1910)と共に修史事業を担った私達の大先輩なのです。久米は、佐賀藩士、昌平坂学問所に学び、1871(明治4)年に派遣された岩倉使節団に随行し、「特命全権大使米欧回覧実記」を著述したことでも有名です。重野は薩摩藩士、昌平坂学問所に学び、冤罪で奄美大島に遠島。赦されたのち、生麦事件によりおきた薩英戦争の和議の使者となり、英国との交渉をまとめた人物です。重野は、「修史ノ材料ハ古文書・日記ヲ以テ最上トス、従前史家ノ拠ル所ハ大概戦記物語ノ類、後人ノ手ニナルモノニシテ、附会潤色信ヲ取ルニ足ラス、日本史ト雖トモ南北朝以後ハ専ラ斯弊アリ」として、1885年から全国史料採訪を開始しました。重野は、『太平記』の史料批判などで「抹殺博士」とも呼ばれました。
 久米の筆禍事件のあと、1893年に漢文体正史の編集は中止されました。しかし、1895年から歴史の理解の基礎となる史料集の編纂に事業は転換され、1901年から、『大日本史料』『大日本古文書』の出版が始まりました。教科書に、明治時代の学問の発展の説明で、東京帝国大学の史料編纂掛で編纂事業が進められたことを記しているものもあります。その後、『幕末外国関係文書』『大日本古記録』『大日本近世史料』『大日本維新史料』『日本関係海外史料』『花押かがみ』『日本荘園絵図聚影』『正倉院文書目録』なども編纂され、前近代日本史研究の基礎となる史料集は、1000冊に及んでいます。
史料編纂所では何が行われているか
 研究部は、古代史料部門、中世史料部門、近世史料部門(明治維新も扱います)、古文書・古記録部門、特殊史料部門(外国史料などの研究)、画像史料解析センターからなり、50数名の研究者が史料研究を進めています。
 藤原道長が自らの栄華を誇った「此の世をは 我世とそ思 望月の 虧たる事も 無と思へは」の歌を記す「小右記」は、多くの教科書に紹介されています。古文書・古記録部門は、道長の日記「御堂関白記」と共に、この「小右記」を『大日本古記録』として刊行しました。『日本関係海外史料』は、イギリス商館長日記やオランダ商館長日記、またイエズス会の日本布教史料を編纂したもので、オランダ語やポルトガル語の史料を研究する研究室もあります。100年以上前から進めてきた史料の収集は、日本国内のみならず、アジア諸国や欧米諸国にも及び、現在も続けられています。
 研究部と協同して、史料の保存・複成・撮影を行うのが史料保存技術室です。また、国宝・重要文化財14件を始めとする貴重史料や図書を管理し、国内外の研究者や市民に公開するのが図書部です。さらに、大量の所蔵史料や史料集の利用を促進するために、1000万件のデータを集積したデータベースも公開しています。
教科書で見た絵巻物や古文書を見てみよう
 重源の事績を記した「南無阿弥陀仏作善集」、「倭寇図巻」、刀狩令など、史料の面白さに触れていただきたいと思います。