東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本史料 第六編之五十


 本冊には、後一条天皇の長元五年(一〇三二)四月から、同年年末雑載までの史料を収めている。
本冊には、南朝長慶天皇の天授三年=北朝後円融天皇の永和三年(一三七七)の九月から是歳、および年末雑載のうち、気象・災異、社寺、公家、諸家、贈答・往来、学芸の史料を収めた。なお、学芸の史料は次冊にも引き続き収める。
 天授三年=永和三年九月~是歳の主な出来事は以下のとおりである。
北朝では、後円融天皇が病気となった。十月二十一日、この二、三日具合が悪いということで、医師の丹波篤直・頼景・兼康、和気広成らが召された。篤直らは疱瘡の初期症状かと診断し、兼康は通常の風邪と診断した。天皇は二十三日にはほぼ体調を快復している。ところが天皇は十一月十一日に、再び体調を崩す。当初、熱・頭痛があり、一旦、症状が和らぐものの、十四日には疱瘡の症状が現れた。十九日には土御門内裏で醍醐寺の理性院宗助を阿闍梨として祈祷のため愛染王法が行われた。二十一日には天皇の体調は回復し、十二月二日には病後初めての沐浴が行われ、医師らが禄を賜っている。
 また八月十五日に行われた石清水放生会の際に発生した怪異への対応が行われている(九月二十五日条・十二月六日条)。還御の際、神輿が逆向きとなり、また御剣が撓んだという。このことは石清水八幡宮から社解によって朝廷に報告され、朝廷からは二条良基や近衛道嗣に諮問が行われた。道嗣は十月二日に申詞を提出し、御剣については報告に不審点があるためさらなる調査が必要とし、神輿についてはすぐに向きが直されたことから怪異には当たらないとの見解を述べている。この件については、軒廊御卜が行われることとなり、上卿に指名された久我具通は十月二十八日に三条公忠にその次第について問い合わせており、御卜は十二月六日に行われた。なお、この御卜はこの年の政始に引き続いて行われているが、これについて三条公忠は、政始は本来、春の内に行われるものであるとして、批判している。
 十二月十一日には、翌年が後円融天皇の重厄にあたるため、禁中で醍醐寺の報恩院隆源を阿闍梨として不動法が行われた。  また、同日、円覚寺領への造伊勢大神宮役夫工米以下の諸役を免除するとの官宣旨が尾張・駿河以下の十ヵ国に下されている。これは同年八月の円覚寺住持大虚契充の申請を受けたものであり、出羽国分については、幕府が十二月二十四日に斯波兼頼に宛てて施行している。兼頼は奥州管領斯波詮持の叔父で、出羽国の守護に相当する地位にあったと考えられる。
 円覚寺は応安七年(一三七四)十一月二十三日に火災にあい、復興が進められていた。鎌倉府は永和二年(一三七六)八月二十二日に鎌倉府管内に棟別銭・関銭を、鎌倉中に諸役を課して復興を支援する方針を決め、同年九月二十四日付の安房・上総・上野・下野に宛てた棟別銭賦課の文書がのこされている。本冊の範囲でも鎌倉府は、九月二日には相模国の寺社領に、十月六日には常陸国の諸郡に、十一月十七日には下野国の小山氏・宇都宮氏に対し、棟別銭の督促を行っている。また、十一月二日には駿河守護今川範国が、円覚寺領からの年貢・材木に対する関銭の免除を命じている。
 なお、永和三年正月十二日に死去した此山妙在に代わって、大虚契充が円覚寺住持となるのは永和三年十二月であるが、先に触れたように、同年八月には既に住持として活動している。幕府では、九月八日に等持寺を十刹の第一位としたが、直後の二十一日にはこれを撤回している。
 また、九月には近江守護の職務を六角亀寿丸が行うよう、命じている。亀寿丸の父六角氏頼が応安三年(一三七〇)に四十五歳で死去した時、亀寿丸は幼少であったため、氏頼の猶子となっていた京極高詮が、亀寿丸が十五歳になるまで後見することとされていた。ところが、九月二十一日、非法の行いがあるとして高詮は亀寿丸の後見を停止され、翌二十二日には六角邸を退去し、二十五日には亀寿丸に氏頼の跡を継承するよう御教書が発せられた。これにともない、それまで高詮に宛てられていた近江国内への遵行命令は亀寿丸に宛てられるようになり、十一月十四日には柏木御厨内の土地の遵行が亀寿丸に命じられている。亀寿丸の年齢は不明であるが、『後愚昧記』永和五年(一三七九)三月六日条には「当時幼稚」とある。康暦二年(一三八〇)八月十二日の幕府御教書案(海蔵院文書)には亀寿、永徳二年(一三八二)二月二十一日の幕府御教書(臨川寺重書案文)には四郎とあることから、この間に元服したと考えられる。
 この間、朝廷・幕府を悩ませたのが興福寺の内部紛争である。興福寺では永和元年(一三七五)十一月から西南院覚家と東北院円兼が維摩会の講師をめぐって争い、六方衆がそれぞれに味方して紛争が続いていた。同二年六月には合戦となり、同三年九月に、西南院方の六方衆が東北院方の処罰を訴えて春日神木を動座させ、神木は同二十七日に宇治の平等院に入った。十月六日には後円融天皇が綸旨を下して折中の案を示すも事態は打開せず、十日には細川頼基が奈良に向けて出陣し、淀に至った。結局、十一月になって、六方衆は覚家・円兼を同罪とする勅裁を要請し、二十六日に神木は宇治を出発し、翌二十七日に春日社に帰座した。
 九州では今川了俊が南朝攻略のための活動を継続しているが、この間の大きな出来事としては、肥後・日向・大隅・薩摩の国人ら六十一人による一揆の結成がある。この一揆の契状は永和三年十月二十八日の日付をもち、応安八年(一三七五)の了俊による少弐冬資謀殺を受けて離反した島津氏が、降参を申し出たという状況の中で作成された。従来から島津氏と対抗関係にあり、了俊の下で島津氏と戦ってきた国人らは、島津氏の降伏にともない、自らが確保してきた権益が覆されることを怖れたのである。これを受けて了俊は、十一月二十二日・十二月十四日に今川満範に、十二月十三日には一揆中に対して書状を送り、彼らの不安の払拭に努めるとともに、あくまで了俊の命令に従うことを求め、十二月十五日には禰寝久清にも一揆と同心するよう要請している。
 なお、十月二十日条および雑載諸家の項に見える出雲守護代の自勝は、従来、佐々木清氏とされてきたが、鎌倉時代に出雲・隠岐の守護を歴任した義清流佐々木氏で、系図類に「彦左衛門尉」「隠岐入道」と見える佐々木氏清と考えるのが適切と判断した。
 南朝ではこの冬、宗良親王が吉野を出て信濃国へと下向する途中、長谷寺で出家している。宗良親王は、当初、仏門に入って尊澄と名のり、妙法院門跡・天台座主となったが、延元二年(一三三七)に還俗して宗良と名のり、南朝の親王として各地を転戦した。出家は二度目となり、この時、六十七歳であった。
 永和三年も倭寇の活動は活発で、六月には安吉常が倭寇禁圧を求める使節として日本に派遣され、これに対し、今川了俊は八月に僧信弘を朝鮮に派遣して、倭寇禁圧の困難を伝えた。九月には今度は鄭夢周が日本に派遣されている。
 この間、常山□有・前建仁寺住持桂巌運芳・南朝従二位権中納言洞院公将・南朝正三位右衛門督洞院守信・前大徳寺住持虎渓道壬が死去している。虎渓道壬については二種類の花押が存在しており、それぞれを収載した。
 また、北朝従二位前参議源彦良・正三位前参議葉室長藤・従三位非参議北畠雅方が出家している。なお北朝従三位非参議楊梅親行は『公卿補任』に「永和三年出家云々」とあることにより便宜合叙としたが、応安七年九月十二日条に「楊梅三位入道殿」とあることから、これ以前に出家していたものと考えられる。
 雑載の贈答・往来の項には、明が日本僧の明国内での往来を禁止したこと伝える『空華日用工夫略集』の記事を収載している。明から帰国した久庵道可が義堂周信に対して、明の様子を伝えたものである。一三七四年には明が市舶司を廃止しており、この時期には明の外交方針が閉鎖的になっていたことが指摘されている。
 学芸の中には、剛中玄柔による東福寺への元・普寧寺版一切経の施入に関する史料を収録した。玄柔は文保二年(一三一八)に豊後で生まれ、玉山玄提の弟子となり、東福寺・南禅寺などで修業した後、玄提とともに日向大慈寺に入り、その二世となった。自ら入元の希望をもっていたが叶わず、弟子を派遣して大蔵経二蔵を将来し、一蔵を大慈寺に、一蔵を永和三年七月六日に東福寺に納めた。
 また伝法関係で、興雅から宥快への授法に関わる史料を多く収録した。東密小野三流の一派である安祥寺流の伝承史のうえで、大きな意義を持つ伝法である。興雅は藤原実博の息で、安祥寺第二十世隆雅贈大僧正より灌頂を受け、同寺門主職を継いだ。長く宮中の太元法阿闍梨を務め、後光厳天皇の帰依を受けた。宥快は、字は性厳、藤原実光の息、高野山宝性院の信弘のもとで修学し、師の示寂により応安七年(一三七四)に同院主となった。
 興雅から宥快への伝法の次第については、宥快による「安祥寺相承由来事」、興雅の「授与記」、口伝の内容について宥快が記し、興雅が注を加えた「嫡嫡相承唯授一人記」、興雅が述べたものを宥快が記録した「御密談」等が詳しい。宥快は安祥寺流こそが密教の正統であると考え、受法の志において年来懇切なものがあったが、永和三年三月、三河国に赴いた帰路、安祥寺に参詣した。たまたま成身院光信に出会い、受法を念願していた旨を申し述べたところ、五月に興雅と面謁がかない、受法を許された。血脈代数・灌頂作法・大法秘法等について種々の教えを受けたほか、後光厳天皇の勅書や願書等も拝見した。いったん高野山に帰ったが、二度にわたって霊夢を感じることがあり、九月に興雅からの書状を受領して、再び安祥寺に参じた。九月二十二日から両者相対し、二十七日にいたって一流聖教拝領すべしとの興雅自筆の状を授けられ、恐悦歓喜したという(「安祥寺相承由来事」)。「授与記」には、五月十日付で宥快に門弟となることを許した興雅の書状が載せられる。授法の内容については、大部にわたる「嫡嫡相承唯授一人記」が詳細に記す。この史料は宥快・興雅両人が教義に対して疑義を提示し、解釈を論じ、理解にいたる過程をそのままなぞったものとなっており、当時の知識人の思考の文脈をたどることができるものとして興味深い。同時に国語学的な史料としても有用と思われる。
 上記の受法によって、安祥寺流は高野山において伝えられることになったのだが、十月六日に、興雅が宥快に語ったという体裁をとる「御密談」は、この点に触れている。最初に以下のことが述べられる。康安元年(一三六一)六月に大地震が近畿地方を襲った際に、天下の重事に臨んで「第一の秘法」を修すべきだという後光厳天皇の意向を受け、興雅が宝珠法を修した。御願成就により、その後も五六度にわたって同法を修し、いずれも効験を顕したのは弘法大師の御恩だととらえる。大師の御恩に報いるためにも、興雅は「嫡嫡相承の法流を大師の御山に進め置かばや」と考えていた。安祥寺門跡は「末代の習、憑み少なく心細し」、対して高野山は「さすがに霊地なれば」法流の安定的継承をはかることができると期待したのである。適当な継承者を求めていたところ、あらわれた宥快は、まさに「大師の御使」といえる人材だったので、興雅の自筆聖教や嫡嫡相承の奥旨を授けた。伝授に先立っては、大師・本願律師実厳・本願本尊の毘沙門像の前で籤を引き、いずれも可と出たために決したという。「御密談」は、安祥寺から高野山宝性院への法流の移行を正当化する意図が含まれていると考えられるだろう。
 これらの史料に加えて、十月二十一日付の聖教重宝等の附属状がのこされている。厳覚・宗意・実厳と伝えられてきた東寺仏舎利一粒および後光厳天皇の代に朝家護持のために朝廷に渡された東寺仏舎利十粒のうちの五粒(宸筆の記録が付属するという)に始まり、実厳由来の仏像・仏具、興雅自筆の聖教一合などを宥快に伝えるとみえる。
 さらに関連する聖教奥書を収録した。永和三年の年紀の記載があるものに限ったが、ほかにも年次のないものが多く伝来していると考えられる。たとえば本所で昭和三十四年に購入したという「十八道次第 安」(〇〇一四─一二)は、安祥寺流の十八道念誦次第を宥快がまとめ、興雅が傍書・裏書の形で注を付したもので、「嫡嫡相承唯授一人記」と共通の体裁を持つ。両人が関与した聖教は膨大な量にのぼり、かつさまざまな写本が作成されているので、今後も探索が必要であろう。宥快は応永二十三年(一四一六)七月十七日に寂しており、『大日本史料第七編之二十六』に事績関係史料が収録されているので参照されたい。
 なお、本冊の編纂には、前冊までと同様、研究支援推進員鈴木久美の協力を得ている。
 (目次一三頁、本文五五二頁、本体価格一一、五〇〇円)
担当者 本郷恵子・西田友広


『東京大学史料編纂所報』第54号p.42-45