大日本史料 第二編之三十二

本冊には、後一条天皇の長元五年(一〇三二)四月から、同年年末雑載までの史料を収めている。
 この時期の主要な記録である右大臣藤原実資の日記「小右記」は、長元五年については正月~十二月記を存するが、正月~十月記は略本のみであり、参議右大弁源経頼の日記「左経記」は長元五年七月以降の本記を闕く。
 この間の主な事柄としては、斎院交代後はじめての賀茂祭(四月二十一日の条)と新斎王馨子内親王の初斎院入り(同月二十五日の条)、大風による宇佐八幡宮神殿等の顛倒(同月二十二日の条)、旱魃による祈雨(後掲)、東宮敦良親王第二王女の誕生( 九月十三日の条)、虚偽の杵築社託宣を言上した出雲守橘俊孝の配流(九月二十七日の第二条)、上東門院菊合(十月十八日の条)などが挙げられる。。
 長元五年の賀茂祭は馨子内親王が斎王に卜定されて初めての賀茂祭であったが、斎王はまだ初斎院にも入っておらず社頭に参じることができないため、斎王不在時の行列における山城国司・騎兵の供奉の有無や帰日の作法等について議論が生じている。馨子内親王はこの四日後に鴨川で御禊を行い、初斎院である大膳職に入御した。
 宇佐八幡宮は万寿四年(一〇二七)に造替の宣旨が出され(同年十一月二十六日の第二条、二十五冊収載)て以降造営が進められ、本年二月には立柱・上棟にまで至っていたが、四月二十二日の大風により一御殿・二御殿・三御殿・申殿がそれぞれ大きな被害を受けた(四月二十二日の条)。朝廷は軒廊の御卜を経て改めて立柱・上棟の日時を定め、造営の勤行を大宰府に命じている(七月二十日の条)
 本年は二月から六月にかけて旱魃が続き、宇治川や淀川の渡しでは徒歩での往還が可能だったとされる(六月二十七日の条)。朝廷は四月二十八日の丹生・貴布祢社への奉幣(四月二十八日の条)を皮切りに、権大僧都仁海による請雨経法および陰陽助安倍時親による五龍祭(五月一日の条)、諸社・諸寺における御読経(五月八日の第三条、同月二十四日の第一条)、諸社への奉幣(同月十八日の条、六月二日の第一条)、大極殿での仁王経転読・臨時仁王会・千僧御読経(五月二十日の条、同月二十四日の第二条、六月十五日の条、同月二十七日の条)などを行い、祈雨に努めた。なお、この旱魃により本年の相撲は停止された(六月二十九日の第一条)。
 東宮の第二王女は、東宮と禎子内親王との間の第二子となる。内親王は四月三日に内裏から藤原義通の中御門邸に退出し(四月三日の第二条)、九月十三日に王女を出産した。王女は後年、娟子と命名される。禎子内親王と王女の内裏還御を示す史料は伝わっていないが、十一月一日には宣耀殿において五十日の儀が執り行われている(十一月一日の第二条)。
 出雲杵築社に関しては、前年八月に神殿が顛倒した由が「日本紀略」等にみえ(長元四年八月十一日の第二条、三十一冊収載)、同年十月に国司橘俊孝が国解を朝廷に呈し、社殿が無風にして顛倒し宝殿中の御正体が露居した様子がつぶさに報告された(同年閏十月三日の条、同上)、これによって軒廊御卜が行われ、託宣もこのときに上奏に至っている。託宣にしたがい、大極殿において臨時仁王会が修された(同年十一月三十日の条、同上)ほか、託宣には改元や天皇の御慎に関する事柄も含まれていたとみられ(五年正月二十二日の条及び同年三月十二日の条、同上)、前年の大神宮託宣につづく神託に、朝廷では重く受け止められたと推測される。本年六月、陣定において、杵築社造立のことが定め申されたが、造立に関する国司俊孝の申請内容が杵築社の原状復帰としては不審な点がみられることが指摘され、官使に木工官人を添えて派遣し実検させることとなった(六月三日の第二条)。ところが八月一日夜に官使が国司俊孝と共に帰京し、託宣自体が虚偽であったことが明らかにされた。これをうけて二十日に陣定が行われ(八月二十日の条)、その議論の詳細は伝わらないものの、翌月、橘俊孝は佐渡国に配流された(九月二十七日の第二条)。
 上東門院菊合は、十月十一日から法成寺東北院において営まれた念仏(十月十一日の条)の後、御堂の前に植えられていた菊に興をもよおした侍臣・女房たちの様子に、東宮大夫藤原頼宗が発意して行われた十番歌合である。講師は左が藤原兼房、右は源経長が務め、関白左大臣藤原頼通も臨席した。本条の主たる史料である「歌合」は、歌合に参加した女房の手によるものと推測されるが、十巻本歌合・二十巻本歌合の両者にほぼ同文が見られる。本冊ではより多くの記事が残る前者を収載した。本史料は個人蔵を含む数点の断簡で構成されるが、各断簡の情報は萩谷朴『平安朝歌合大成』第二巻(増補新訂、同朋舎出版、一九九五年)に譲ることとし、本冊では二十巻本との異同を校訂註によって示した。なお上東門院に関する事柄としては、頼通の高陽院から藤原惟憲の家に遷御したこと(十二月十九日の第三条)がある。遷御にあたっては、家主の賞として、左衛門督源師房(頼通の猶子)が正二位に、頼通の室隆姫女王が従二位に叙された。
 恒例の行事・政務に関しては、五節(十一月二十一日の第二条)、宇佐使発遣(十一月二十六日の第一条)に関する史料が注目される。本年の五節では藤原実資の女婿藤原兼頼が舞姫を献じたが、実資自ら「経営如下官経営」と記すように実資が準備を取り仕切っていたため、「小右記」には舞姫献上の準備や参入の様子、内裏滞在中の諸事等に関して詳しい記事がみえる。
 本年の宇佐使は十一月二十六日に発遣されたが、その後に、宇佐使に付して送られる香椎廟への宣命が作成されず送られていなかったことが発覚した。調査の結果、大内記橘孝親が万寿三年に自らが作成しなかったことを前例と称してその後の香椎廟への宣命を作成していなかったことが判明し、香椎廟には十二月四日に追って宣命が遣わされた。なお、年末には直物が十二月十三日に予定されていたほか、多くの公事が藤原実資を上卿として行われる予定であったところ、十二日に兼頼家の侍がもたらした穢により実資家が触穢となった(十二月十二日の条)。これにより年末の公事の多くは内大臣藤原教通が担うことになった(十二月十三日の第一条、同月十七日の第二条、同月二十五日の第一条)が、直物については藤原頼通が自ら行うべく、除目の上卿でなかった者が直物を行う例を勘申させた。これに対して実資は、実資家の触穢が実は丙穢であり、参内に支障がないことを村上天皇御記から多くの先例を掲げて示し、一方では除目の上卿以外が直物を行った先例がないことが外記により勘申されたが、頼通にはなお直物を行う意があるとされている。実資は、頼通が直物にこだわる背景には大宰権帥の人事があるとみている。ただし、直物がいつ行われたかについては不詳である。
 後一条天皇に関する事柄としては、御悩により三壇御修法や不断御読経が行われたことがみえる(四月二十七日の条)。藤原頼通に関する事柄としては、堀河第への移徙(四月四日の第二条)、初めて牛車に乗って参内したこと(八月十三日の条)、同母妹である中宮藤原威子に故父藤原道長の遺言に従い遺領一荘を献じたこと(八月二十五日の第二条)、故道長に代わって入宋僧寂照に返状を送ったこと(十二月二十三日の第二条)、束帯の着用が難しいほどの腫物を煩ったこと(同日の第三条)などがある。藤原実資に関する事柄としては、養子資平の二男資仲の元服(十一月二十六日の第二条)、「西地」に邸宅を新造したこと(同日の第三条)、栖霞寺において十六羅漢を拝したこと(十二月十八日の条)などが挙げられる。
 ほかに注目すべき事柄として、強盗による安芸守従五位上紀宣明の殺害(六月二日の第二条)、金峯山検校元助の殺害(六月二十二日の第二条)、強姦・強盗などを犯した従五位下国正王とその従者の断罪(十一月十四日の第二条)、権大納言藤原頼宗の九条第および法住寺の焼亡(十二月八日の条)、駿河富士山の噴火(十二月十六日の条)などがある。
 本冊において、その事蹟を収録した者は、紀宣明(六月二日の第二条)、無品敦元親王(七月十四日の条)、前美濃守藤原庶政(八月二十六日の条)、右京大夫従四位下藤原実康(八月二十八日の第二条)、僧梵照・源重季・保季王・小槻仲節(年末雑載、社会の条)である。
 本年の年末雑載学芸条には石山寺所蔵「大般若経字抄」を収めた。本書目の撰述年次は明記されていないが、長元五年は撰述年次を考えるにあたって重要な年紀であることから、本冊において収載することとした。「大般若経字抄」は藤原公任の撰とされる大般若波羅蜜多経を用いた音義書である。先行の経典諸音義と異なり、掲出法が基本的に熟語ではなく単字本位であること、片仮名による和訓が数多く付されていること、音注に独自の注音法が用いられていることなど音義史上重要な特徴を有し、また音義のみならず、大般若経本文に対する諸本の校異、難読箇所の抜出し、「法随法行」等に関する諸経を引用した注解等、多岐にわたる内容を含み、大般若経の研究書という性格も有しているとされる(沼本克明「石山寺一切経蔵本 大般若経字抄解題」『古辞書音義集成第三巻 大般若経音義・大般若経字抄』、古典研究会出版、汲古書院発行、一九七八年)。本書目の収録にあたり、貴重な聖教の原本調査を許され、御高配を賜った大本山石山寺に厚く御礼申し上げる。また、原本調査および収録にあたっては東京大学大学院人文社会系研究科・文学部国語学研究室教授月本雅幸氏の御教示を得た。記して感謝申し上げる。
 なお、本冊の編纂には、前冊までと同様、研究支援推進員天野晴美氏の協力を得ている。
(目次一五頁、本文三〇八頁、本体価格七、五〇〇円)
担当者 伴瀬明美・黒須友里江

『東京大学史料編纂所報』第54号 p.40-42