東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本古文書 家わけ第十六 島津家文書之六

 本冊では、前冊に続き、「御文書」と名付けられた巻子の文書を収録した。収録した巻子は以下の十六巻で、題名は巻子の外題に書かれたものである(カッコ内は架蔵番号)。〈br〉 ①御文書 家久公十二 二十二通 巻十七  (5─4)〈br〉 ②御文書 家久公十三 二十五通 巻十八  (5─5)〈br〉 ③御文書 家久公十四 二十三通 巻十九  (5─6)〈br〉 ④御文書 家久公十五 十九通  巻二十  (5─7)〈br〉 ⑤御文書 家久公十六 二十四通 巻廿一  (5─8)〈br〉 ⑥御文書 家久公十七 二十四通 巻廿二  (5─9)〈br〉 ⑦御文書 家久公十八 二十三通 巻廿三  (5─10)〈br〉 ⑧御文書 家久公十九 二十三通 巻廿四  (5─11)〈br〉 ⑨御文書 家久公二十 二十四通 巻廿五  (5─12)〈br〉 ⑩御文書 家久公廿一 二十二通 巻廿六  (6─1)〈br〉 ⑪御文書 家久公廿二 二十四通 巻廿七  (6─2)〈br〉 ⑫御文書 家久公廿三 二十三通 巻廿八  (6─3)〈br〉 ⑬御文書 家久公廿四 二十四通 巻廿九  (6─4)〈br〉 ⑭御文書 家久公廿五 二十一通 巻三十  (6─5)〈br〉 ⑮御文書 家久公廿六 二十二通 巻三十一 (6─6)〈br〉 ⑯御文書 家久公廿七 二十一通 巻三十二 (6─7)〈br〉  このうち、①から⑨までは黒漆塗第十番箱に収められた巻子で、第十番箱の巻子は前冊と本冊とですべて編纂したことになる。⑩から⑯は黒漆塗第十一番箱に収められた巻子である。これにより、本冊までに編纂を終えた箱は、黒漆特二番箱、黒漆第一番箱、黒漆第三番箱、黒漆第二番箱、黒漆塗第十番箱となる。以下、巻子ごとにその主な内容を紹介する。〈br〉  〔御文書 家久公十二 二十二通 巻十七〕〈br〉  慶長十三年卯月二十二日付け片桐定隆(貞隆)書状から同年十二月晦日付け山口直友書状までが収められている。この巻には、翌年の琉球出兵に関する文書が散見され、琉球より来貢についての返答がなければ軍勢を派遣するのでその準備をするようにという徳川家康の意向が伝達され、出兵は家康の上意を得てから行う様、山口直友から強く念押しされている様子などが見える。〈br〉  〔御文書 家久公十三 二十五通 巻十八〕〈br〉  慶長十四年正月五日付け高野山文殊院賢定書状から同年十二月二十六日付け本多正信書状までが収められている。前巻に続き琉球出兵に関する文書が多く見られる。島津勢が首里城を取り巻き王を捕らえて凱旋したこと、出兵により家久の名声が上方で噂されていること、家久が琉球国を拝領したことなどが見える。また、猪熊事件や、高野山に島津家の菩提所として蓮金院を営んだことに関する書状も見られる。〈br〉  〔御文書 家久公十四 二十三通 巻十九〕〈br〉慶長十五年二月二日付け山口直友書状から慶長十六年端月十一蓂琉球国王尚寧書状までが収められている。尚寧を連れて家久が駿府・江戸へ参向したこと、薩摩に着岸したゴアの使者ドン=ヌーノ=ソトマヨールを江戸へ送り届けるが、その際の処置が悪かったとして家康の不興を買うも、後藤光次の取り成しにより事なきを得たことなどを記す書状や、前年の八月八日付け幕府年寄奉書の示達に従い領内に着岸した唐船と商売をし、荷物と唐人の数を報告した事が確認される元和三年の幕府年寄奉書など、琉球支配・南蛮船・唐船の着岸に関する文書が目に付く。家久が家康・秀忠への忠節を誓い、家康年寄の本多正純も家久に疎意なきことを誓い、両者の間で起請文を交わしていることも注目される〈br〉  〔御文書 家久公十五 十九通  巻二十〕〈br〉  慶長十六年二月二十一日付け本多正純書状から同年十月十二日付け本多正信書状までが収められている。三月二十七日に後陽成天皇の譲位が行われて家康が上洛したこと、それに合わせて秀頼も大坂から上洛し、三月二十八日に両者の対面が実現したことを記す書状が見られる。京都所司代の板倉勝重は秀頼の上洛を「御出仕」と位置付け、仕合よく済んだことを大坂衆が祝していることを家久に伝え、秀頼家臣の小林家孝も対面が無事済んだことを「上下万民、天下太平目出度」と祝している様子が見える。また、琉球を通じて明との通交を才覚するようにという家康の命を伝える山口直友書状や、島津氏への服従を誓う尚寧の起請文など、琉球支配の文書も収められている。〈br〉  〔御文書 家久公十六 二十四通 巻廿一〕〈br〉慶長十七年正月二十日付け山口直友書状から慶長十八年十一月十六日付け相良頼房書状までが収められている。新帝(後水尾天皇)の御所造営のための材木調達に関する書状、家久の妹千鶴が人質として出府するため、路次の駄賃馬馳走を宿の年寄に命ずる京都所司代板倉勝重の黒印状、日向県藩主高橋元種の改易に関する書状などが注目される。〈br〉  〔御文書 家久公十七 二十四通 巻廿二〕〈br〉  慶長十八年十一月二十四日付け寺澤広高書状から慶長二十年六月十六日付け藤堂高虎書状までが収められている。この巻には、大坂冬・夏両陣に関する文書が収められている。家久は、冬・夏両陣ともなかなか出陣の動きを見せず、怪しんだ徳川方からは出国を促す書状が何度も家久に送られ、落城の直前、ようやく上坂・参陣している様子が確認できる。また、落城後の牢人狩りについて指図した江戸幕府年寄連署奉書も収められている。このほか、慶長十九年五月、薩摩に着岸した唐船との取り引きは唐人次第にすべしとの幕府の命を伝達した長崎奉行長谷川藤広の書状や、慶長十九年の長崎における教会破却に関する書状、高山右近の日本追放を知らせる書状など、キリシタン対策に関する文書も目を引く。〈br〉  〔御文書 家久公十八 二十三通 巻廿三〕〈br〉  慶長二十年閏六月朔日付け福島正則書状から元和三年五月十六日付け本多正純書状までが収められている。元和二年四月十七日には家康が没し、京都にいた家久は見舞いのため駿府へ下向しようとするが、所司代の板倉勝重に留められ、在江戸の諸大名も悉く賜暇され帰国を命じられたことなど、家康死去直後の状況を確認できる書状が見られる。また、尚寧が、王位・琉球の統治、明との交易などに関して島津氏に請状を差し出し、琉球の置目申し付けを乞うていることなど、琉球支配の様子を示す文書も注目される。〈br〉  〔御文書 家久公十九 二十三通 巻廿四〕〈br〉  元和三年七月九日付け西洞院時慶書状から元和四年六月四日付け西洞院時直書状までが収められている。元和三年六月に秀忠の上洛があり、家久も上京し十月初めまで滞在したため、この巻の文書は、近衛家の家礼である西洞院時慶・時直父子からの書状がほとんどを占めている。この上洛中、家久は参議に任ぜられ松平姓を許されている。また、在京中に後陽成上皇が崩御するが、家久は西洞院家を通じて上皇の様態を済々伺っているため、崩御までの経過を確認することができる。そのほか、島津義弘が国元で筋気を煩い、秀忠が一段と心配をしていることや、京都から医者の曲直瀬玄由が薩摩へ下向したことなどを示す文書が収められている。〈br〉  〔御文書 家久公二十 二十四通 巻廿五〕〈br〉  元和四年六月十三日付け飛鳥井雅胤書状から元和五年十二月二十九日付け水野忠元書状までが収められている。元和四年の暮れ、秀忠の命により、家久は松平定勝の娘を室に迎える。元和五年に入ると、五月に秀忠の上洛があり、家久はこれに先立ち上京する。京都では、親王・門跡・公家衆と交流している様子が見られる。また、元和五年には島津義弘が没したほか、六月に改易されることとなる福島正則に関する風聞が京都で立てられていることなどについても見ることができる。〈br〉  〔御文書 家久公廿一 二十二通 巻廿六〕〈br〉  元和六年二月二十七日付け土井利勝書状から元和九年七月二十六日付け土井利勝書状までが収められている。元和六年の家久は江戸にいた様であり、秀忠や幕閣、諸大名との交流の様子がうかがえるものが多い。元和六年の徳川和子入内や、元和九年の松平忠直改易に関する書状も見える。元和九年の秀忠上洛の際には家久も上京したため、在京中の行動や公家衆との交流を示す書状も見られる。〈br〉  〔御文書 家久公廿二 二十四通 巻廿七〕〈br〉  元和九年八月四日付け飛鳥井雅胤書状から寛永三年六月二十四日付け細川忠利書状までが収められている。明国皇帝熹宗の即位(元和六年)にあたり使節を北京に派遣したことを機に、琉球と明との通交が旧に復したことを報じた、寛永三年正月の琉球国王尚豊書状が注目される。そのほか、元和九年の在京中における家久の行動・交際、寛永二年の光久(家久嗣子)の家光への初目見得、寛永十年の女一宮(後の明正天皇)の降誕に関する書状などが見られる。寛永元年十一月二十九日以前に、家久が花押を改めていることも確認できる。〈br〉  〔御文書 家久公廿三 二十三通 巻廿八〕〈br〉  寛永三年八月二十八日付け牧野正成書状から寛永六年三月二十一日付け土井利勝書状までが収められている。寛永三年と同十一年の家光上洛に関する文書が含まれ、前者の際には家久は中納言に任官している。そのほか、細川忠利の肥後転封、黒田騒動の兆しなどを記した書状が見られる。〈br〉  〔御文書 家久公廿四 二十四通 巻廿九〕〈br〉  寛永六年十月八日伊東祐慶書状から寛永八年九月二日付け松平信綱書状までが収められている。寛永八年の八月に大御所の秀忠が煩い、そのことに関するものが見られる。秀忠の病は寸白と診断され、灸治もするが一進一退の状況である様子が見える。そのほか、寛永六年に家久と有馬直純との間に境目出入りが発生していること、寛永八年四月朔日、嗣子の光久が家光の御前で元服し、偏諱を賜り薩摩守に任ぜられたことなどを示す書状が見られる。〈br〉  〔御文書 家久公廿五 二十一通 巻三十〕〈br〉  寛永八年九月十日付け酒井忠勝書状から寛永十一年七月十七日付け江戸幕府年寄書付までが収められている。引き続き、秀忠の煩いを伝えるものが多く見られる。寛永八年十月には、本復はなりがたいであろうという観測が人々の間でなされていた様子が見える。もっとも、秀忠はこの後、寛永九年正月二十四日に没するが、それを報ずる書状等は収められていない。そのほか、寛永十年十月、熊本藩主となった細川忠利から家久に、九州におけるキリシタン改めの心得について内々申し入れのあったことが目を引く。〈br〉  〔御文書 家久公廿六 二十二通 巻三十一〕〈br〉  寛永十一年閏七月二日付け土井利勝・酒井忠勝連署奉書から寛永十三年十二月九日付け江戸幕府年寄書付までが収められている。注目される内容としては、寛永十一年、将軍代替わりの御礼に、病気の琉球国王尚豊に代わって子息と弟が参府したこと、同年八月、この年より島津領への異国船着岸が禁じられ、入津した唐船六艘の長崎への回航を命じられていること、寛永十二年十一月朔日より翌月中旬まで、全国でキリシタン改め実施のことが仰せ出されたことなどがある。また、寛永十一年に領知朱印状が交付され、その高付けを記した帳面を作成し、同十二年に幕府年寄へ差し出したことや、光久の居所として国分城を修築するため、絵図を添えて幕府に願い出たところ、寛永十三年三月十四日に許可がおりたことなども見える。そのほか、寛永十三年十月頃、家久が病み、家光から見舞いの老中連署奉書が届けられ、京都から医者の久志本常尹を呼び寄せている様子などが見られる。〈br〉  〔御文書 家久公廿七 二十一通 巻三十二〕〈br〉  寛永十三年十二月九日付け土井利勝書状から寛永十四年四月二十三日付け細川忠利書状までが収められている。家久の病はなかなか快方に向かわず、寛永十四年三月には参勤の延引を願い出、翌閏三月二十八日に許可され、緩々と養生するようにとの家光の上意が伝達されている。また、寛永十四年三月には前年来の家光の煩いが快方に向かい、時折、牛込のあたりまで出かけたりしている様子を知らせる書状がある。もっとも、長期の煩いであったため、家光はことのほか衰弱の様子であり、その診療のため、下向していた久志本常尹が鹿児島を後にしていることも確認できる。〈br〉  本冊の挿入図版は、大野治長添状案(二二五五号文書)、福島正則書状(二二八四号文書)、江戸幕府年寄連署奉書(二二九一号文書)、西洞院時慶書状(二三一一号文書)の四点を収めた。大野治長添状案は、大坂冬の陣を目前に、徳川方との手切れの経緯を説明して豊臣方に与するよう家久に求めたもの。福島正則書状は、臨終近い家康の寝所に正則が召され、忝い言葉をかけられたことを記したものである。江戸幕府年寄連署奉書は、キリスト教禁制に念を入れるべきことと、唐船との取り引きは船主次第とすることを申し伝えたものである。重要な文書であるため翌年に軸装したことがわかる家久の書付も残されており(二二九二号文書)、当時の文書管理の実態が窺える。西洞院時慶書状は、八日後に崩御する後陽成上皇の様態を、家久に自筆で報じたものである。病床にいる上皇の食事の様子や、針治・灸治を行ったことなどが記されており、興味深い。時慶は、娘(平内侍)が上皇の後宮に出仕し永崇女王などを産んでいるため、こうした奥向きの情報を入手できる立場にあったのである。なお、巻末に、花押一覧と印章一覧を収めた。〈br〉  (例言二頁、目次二十九頁、本文三四三頁、花押一覧二十頁、印章一覧五頁、挿入図版四葉、本体価格九、〇〇〇円)〈br〉 担当者 山本博文・松澤克行


『東京大学史料編纂所報』第51号p.52-54